覚え書:「韓国詩人・尹東柱の足跡解明へ 代表作舞台は高田馬場?」、『東京新聞』2013年01月15日(火)付、夕刊。




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韓国詩人・尹東柱の足跡解明へ
代表作舞台は高田馬場

戦時下・朝鮮語で詩作、逮捕
 韓国の国民的詩人・尹東柱ユン・ドンジュ 一九一七〜四五年)が、戦時下の日本で詩作した東京都内の下宿場所は、新宿区高田馬場とみられることが、民間研究者の調査で分かった。尹の代表作の中で「六畳一間」と表現されている場所だ。なぞだった足跡が明確になることで、作品研究に新しい光をもたらす可能性がある。 (編集委員・五味洋治)

民間研究者が調査
 下宿場所を探したのは、尹東柱の調査を続けている千葉県柏市の楊原泰子さん。尹の足跡を訪ね、毎週追悼集会を開いている「詩人尹東柱を記念する立教の会」の会員だ。
 代表作の一つ「たやすく書かれた詩」(四二年)は、尹が友人に手紙で送った五編のうち四編の詩に、周辺の様子とともに描かれているが、所在地は分からない。手紙は友人が奇跡的に保存していた。
 尹は一九四二年四月から日本に滞在。半年間は東京・池袋にある立教大で学んだ。京都の同志社大に移籍してから、禁じられた朝鮮語で詩を書いたなどとして治安維持法違反で逮捕された。作品の多くが押収されたため、韓国の友人に送った五編が現存する最後の作品とされている、。このため立教時代に書いたとみられる詩の六畳部屋の場所は、日韓の尹の詩のファンにとって大きな関心事だった。、
 現在の北朝鮮出身で日本に留学していた元北朝鮮高官(故人)が「尹東柱と一緒に東京で下宿していた」と語っていたことが、最近判明した。日本に残る資料や関係者の証言から、元高官の下宿は「東京市淀橋区諏訪町二〇九菊水館」、「同区諏訪町二一二、石神方」の二カ所だったことが楊原さんの調査で分かった。ともに現在のJR高田馬場駅前の高田馬場一に当たる。どちらかが尹の下宿先だったと推定される。
 楊原さんは「関係者の協力でかなり分かってきた。記録に残っている番地に一部不明な点があるのでさらに調査を重ねたい」と話している。
 尹東柱を追悼する集いは、今年も命日に近い二月十七日午後二時、立教大チャペルで開かれる。問い合わせは楊原さんの電子メール = pyol−1917@ezweb.ne.jp =へ。
尹東柱ユン・ドンジュ) 朝鮮開拓民の子孫として中国東北部に生まれる。現在の延世大学(ソウル)を卒業後、42年、立教大学英文科に入り、10月に京都の同志社大編入。43年7月治安維持法で逮捕され、45年2月16日に27歳で福岡の刑務所で獄死した。叙情的な作品は人気が高いが、日本での生活については不明な部分が多い。
    −−「韓国詩人・尹東柱の足跡解明へ 代表作舞台は高田馬場?」、『東京新聞』2013年01月15日(火)付、夕刊。

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詩人尹東柱ユン・ドンジュ)関連資料(2009) 立教大学 pdf

立教大学図書館







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政治はそもそも絶対的に異なっている者を相対的な平等という点で組織するのであって、相対的に違っている者を組織するのとは区別されるのである。



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 すべての人間は、お互いに絶対的に異なっているのであり、この差異は、民族、国民、人種という相対的な差異より大きなものである。その場合、神による《人間》の創造は、複数性のなかに含まれている。しかしながら、政治はこの点ではまるで何も関係ない。政治はそもそも絶対的に異なっている者を相対的な平等という点で組織するのであって、相対的に違っている者を組織するのとは区別されるのである。
    −−ハンナ・アーレント、ウルズラ・ルッツ編(佐藤和夫訳)『政治とは何か』岩波書店、2004年、6頁。

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主著『人間の条件』(1955年)と平行して計画されていたのがアーレントの『政治学入門』で、未完のそれの草稿・断片集を編んだのが『政治とは何か』です。

『人間の条件』で展開される議論を「政治とは何か」という根源的問いという立場から、つねに真理に忠実であろうとしたアーレントの整理された筆致に驚くばかりですが、冒頭に引用したのは、その最初の箇所のまとめの一節です。

まずアーレントの出発点とは何かと考えると、20世紀の二つの事件がその出発に位置しております。一つは、全体主義の成立であり、ひとつは原子爆弾の登場です。彼女のいう「戦争と革命が我々の正規の基本的な政治経験をなしている」という点でしょう。

どのようなイデオロギーに準拠しようとも全体主義の成立とは、人間の自由を完膚無きまでに廃絶するものであり、技術的手段としての原子爆弾の登場は、存在そのものを脅かすものとして人間に対峙している。

こうした状況を前に、アーレントは、ギリシアのポリスの伝統へ立ち戻りながら、自由と同義である政治という観念を新しくしようと試みる。

「政治とは人間の複数性という事実に基づいている」。

政治とは、「違った者たちが共生する」ことに意義がある。だとすれば。「違った者たちが共生する」こととは、同質な者の共生を組織することには基づいていない。

「政治はそもそも絶対的に異なっている者を相対的な平等という点で組織するのであって、相対的に違っている者を組織するのとは区別されるのである」。

そして、アーレントが強調するのは、政治は人間「の中に」ではなく、人間「の間に」生じるものということ。異なる人間の自由と自発性は、人間の間の空間が成立するための必要な前提となってくる。その空間の中において、本当の意味での「政治」が可能になる。

「政治の意味は自由である」。

アーレントの政治理解をふまえた上で、現在の日本の状況を振り返ってみるとどうだろうか。
「政治の意味は自由である」ではないし、「違った者たちが共生する」ことに意義をおいていないことだけは確かであろう。

ふぅ。




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研究ノート:吉野作造と聖書



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 私は吉野先生と言われて思い出す聖書の句がある。先生が別にこの句を愛しておられた訳でもないのですが、私は吉野先生って思うと思い出す聖書の句がある。これはヨハネ伝五章の四四節なんです。「互いに誉を受けて唯一の神よりの誉を求めぬ汝らは、いかで信ずることを得んや。」口語訳は、「互いに誉を受けながら、ただ一人の神からの誉を求めようとしないあなた方は、どうして信ずることができようか。」所謂共同訳によりますと、「人間からの誉は受け入れあうのに、唯一の神からの誉は求めようとしない君たちは、どうして信ずることができようか。」とこうなっております。それから今ひとつは、コリント後書十二章の二節に「君はキリストにある一人の人を知る」という句がございます。私は吉野先生を思い出すと、どういう訳かこういう句を思い浮かべます。というのは、吉野先生は決して人の誉を受けなかった人であります。「栄光神にあれというのは決してクリスマスの天の使いの歌った牧歌ではありません。これは私にとってのひとつの信仰であります」と私におっしゃったことがある。栄光はすべて神に帰す、帰したい、これは先生のお心でありました。さて、我々の会員でありました故木村久一先輩が吉野先生について、「先生は善意の人であった。春風駘蕩の如き人格であられた。己を空しうして他のために尽すとは先生のことであった。要するに先生は偉大なるデモクラットであった。」と言っておられます。もっと詳しく申しますと、「来たって求むる者には、先生は何人も問わずできるだけの尽力を惜しまれなかった。げに己を空しうしてほかのために尽すとは先生のことであった」と書いておられます。それから、東大で憲法を長く教えた宮沢俊義教授が高木八尺先生のことを書いたものの中にこういうことを書いている。「他人に対してはどこまでも寛容、しかし自己に対してはあくまでも厳正というと、私は吉野作造先生を思うのである。」私もそう思います。
堀豊彦:1924(大正十三)年法学部卒、元台北、九州、東京各帝大教授、元東大YMCA理事長。
    −−堀豊彦「吉野作造先生と私 座談会記事(会報第七十二号より)」、『吉野作造先生 五十周年記念会記録』東京大学学生基督教青年会、1983年3月、26−27頁。

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吉野作造自身、広範に発表した文章のなかで、クリスチャンでありながらも、聖書の一句が出てくることがほとんどありません。これは彼自身がおのれの振る舞いにおいて「キリスト教のために」なることに対して禁欲的であったことに由来すると推察されます。

しかし、「生き方」をもって垂範したことは否定できない事実です。

うえの文章は吉野の謦咳に接した門下生の証言ですが、ちょうどその思い出と聖書の一句も出てきておりますのでひとつご紹介しておきます。






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和辻倫理学は、近代日本国家の勃興と挫折に運命を共にした思想体系であると評すべきもの





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 和辻倫理学の評価にかえる。彼の近代主義批判は、日本の文化的伝統に即しつつ西洋近代を克服しようとする試みであったが結果的には失敗に終わったといわなくてはならない。ただ彼がおちいった誤りは、現代史における文化的ナショナリズムの問題性を尖鋭な形で提起する、という一種の反面教師的役割を果たしている。文化と政治、民族と国家を一体化してとらえようとする志向は、現代世界のナショナリズムに色こく現われている傾向である。近代日本は、このような文化的ナショナリズムが育ちやすい歴史的条件を最もよくそなえた民族社会であったため、近代西洋のインパクトに対して敏感な反応を示し、それが近代国家形成の異常な早さになって現われてきたといえよう。しかし和辻の文化的ナショナリズムの背景には、白人種の世界支配に対する「怨恨(ルサンチマン)」が存在しており、その結果彼は、宗教と文化の問題を常に外面的な政治的次元から解釈するという誤りにおちいってしまった。一言でいえば、和辻倫理学は、近代日本国家の勃興と挫折に運命を共にした思想体系であると評すべきものであろう。現代のわれわれは、否応なしにそういう近代国家の遺産を−−プラス・マイナスともに−−引きついでゆかねばならぬ運命にある。われわれに要求されているのは、彼の遺した学問的遺産をいかなる形で継承するかという課題である。
    −−湯浅泰雄『和辻哲郎 近代日本哲学の運命』ちくま学芸文庫、1995年、399頁。

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少し古い本からなのですが、湯浅氏が簡潔に和辻倫理学の限界について指摘したのが冒頭の一節。しかし、この問題は、和辻哲郎一人の問題ではなく、近代日本の思想家すべての問題なのかも知れません。

発想する土壌から完全に自由になることは不可能だから、それに対してどれだけ自覚的に引き受けることができるのかどうか。そしてその否定を脊髄反射としないように取り組むことができるかどうか。この辺なんだろうと思います。

昨今、安直な文化の回帰主義が流行の気配がありますが、回帰の対象として理想化される「近代日本国家」というものは、勃興から挫折へという歴史です。何がそこで問題となり、挫折したのかを精確に捉え、その遺産を引き受けていかない限り、その模倣は、模倣される対象よりもいびつなものとなってしまうと思われる。
 






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キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか






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 本郷教会の会員構成を『新人』一九〇五年二月号所載の「明治三七年度現在会員の概観」によって紹介しておこう。
 (一)会員総数 三八〇(男二七六、女一〇四)。(二)東京在住 二八五、東京以外在住六七、居住調査中 二八。(三)東京在住者中一家庭を有することの明なるもの 四〇組。(四)三九歳以上(数え年)四九、二九歳−三八歳 八六、一九−二八歳 一九七、九歳−一八歳 九、八歳以下 二。調査中 四〇。(五)職業別 実業家四九(内女一)、会社員六、医者二三(内女二、看護婦一二)、美術家三、教育家二二(内女一〇)、官吏一〇、国会議員一、弁護士三、著述家・記者六、伝道四、学生一六八(内女二七)、無職四四(内女三八)、未調査四八(内女一五)。なお学生の内訳は東大二三、京大二、福岡医大一、東京高商八、東京高工五、東京高師二三、一高四、早大一七、そのほか八五(内神学生四)。
 一見注目すべきことは一九歳−二八歳の青年層が会員の過半を占め、そのほとんどが学生であることである。当時山路愛山が的確に評したごとく「本郷教会は書生の教会」であった(「我が見たる耶蘇教会の諸先生」『太陽』一九一〇年一二月)。この「書生」こそ、日本資本主義が一つの社会層として生み出しつつあった若きインテリの代名詞である。帝国主義的発展に半ば酔わされつつも、なお家族倫理の圧迫や天皇制の政治的・市民社会的自由に対する抑圧に耐えがたい思いを抱きつつあった彼らが、一面帝国主義的、一面自由主義的な、国士的風貌をもつ海老名の周辺に惹きよせられてくるのは、きわめて自然のなりゆきであった。
 当時キリスト教界で海老名の自由主義神学に対抗して正統派の福音主義の旗を高く掲げたのは、植村正久の一番町教会であった。山路はこの教会を「書生の教会」に対比して「紳士の教会」と評している。近時キリスト教史の研究家の間では、この「紳士の教会」に対する評価はすこぶる高く、逆に書生の教会は一顧だにされない(たとえば隅谷三喜男『近代日本の形成とキリスト教』、山谷・小塩ほか『近代日本とキリスト教』明治篇)。なるほど植村が福音主義の伝統を固守し、多くの有能な牧師を育てたことは事実であろう。しかし海老名を単に「日本倫理へのキリスト教の妥協降伏」者としての一側面を強調して「最も賢く見えて最も愚かな途を辿った」(隅谷)と評するのは、キリスト教史家の立場からすれば正当といえるかもしれないが、日本近代史家の見地よりすれば不当というほかない。「紳士」のなかからは高倉徳太郎らの注目すべき神学者が出たのにたいし「書生」のなかからは大正デモクラシーの代表的人物吉野作造と鈴木文治が出ている。キリスト教史研究家の側でも、キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか。
    −−松尾尊禱『大正時代の先行者たち』岩波書店、1993年、66−67頁。
      ※「鈴木文治」の章の脚注(3)

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 近代日本の文化人とキリスト教の関係を一瞥したとき、ある程度の接触はもちながらも、福音との決定的な対決・回心を持つことなしに、キリスト教から離れる知識人が多いなか、民本主義の旗手として名高い政治学者・吉野作造(1878−1933)は死ぬまで信仰を失わなかった。私が注目するのは、デモクラット・吉野ではなく、宗教者・吉野である。

 キリスト教と文化・社会活動の関係は単純ではないが、宗教の使命は、必然的に社会的活動をともなうとする立場もあれば、その逆もある。前者は「社会派」、後者は「福音派」「教会派」と呼ばれたりする。近代日本のプロテスタントキリスト教史においては、このどちらか一方の立場に徹するケースが実に多い。社会派信徒は、改良事業への惑溺から「卒業クリスチャン」になってしまい、福音派の信徒は、教会活動に専念し、キリスト教を積極的革新には消極的な「修養倫理」として受容するケースが多い。そして付言すれば、後者が日本のキリスト教の支配的な体質となっている。
 ※勿論、修養倫理が駄目で、社会派万歳じゃありませんので念のため。しかし、内発的なものは不可避に外発することも事実ではあるということ。

 こうした事例と比べた場合、吉野の生涯は、両者が調和した絶妙な歩みとなっている。
 「自分は、自分の人生観を基督教の信仰によつて作り上げたことを密かに満足に思ふものである。……宗教的信念は少なくとも自分にとつて生活の方法を明確に示して呉れた根本のものである」(「斯く行ひ斯く考へ斯く信ず」『斯く信じ斯く語る』一九二四年一一月)。

 宗教者であるということは、ただ学者であるとか、政治家であるかとは異なり、その人間の全生活が、強く、深く、広く、宗教を中心に成り立っていることを物語る。

 吉野のデモクラシーの主張も例外ではない。その活動は単なる時勢的な論壇活動ではなく、信仰と避けがたく結びついている。吉野に関する研究は、宗教と社会変革の問題、さらには日本におけるキリスト教の文化内受肉に関する問題を明らかにする糸口を持っているように思われる。

 冒頭には、同じ関心から近代日本のキリスト教史の把握の問題性を指摘する松尾尊禱先生の一文を掲げた。

キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか」。

 確かに「キリスト教のために」貢献した人物が賞賛されるのは世の常だし、それはキリスト教のみ責められるべき問題ではない。しかし「ために」という人物や事件だけを顕彰するのでは肩手落ちになってしまうのは事実だろう。
 ※ちなみに吉野作造の場合は、キリスト教信仰にめぐりあえた幸せと信仰への自負はあるものの「キリスト教の為に」という党派的な言説は殆ど無い。
 それぞれの宗教に啓発をうけ、土台を形成し、そしてその土壌に自ら建物を築きあげた人物も射程にいれるべきではないだろうか−−。

 少し踏み込んだ言及をするならば、宗教史において、なんらかの独自の取り組みを先人として切り開いてきた人物は、殆どの場合、同時代のメインストリームからは「奇人変人」扱いされることが多々ある。そして泥棒猛々しいことに、構成になってから、さも「われらの成果」といわんばかりに、我が物顔で賞賛する事例にも事欠かない。いわゆる「後出しじゃんけん」だ。

このポイントは留意しながら、足跡を追跡することは必要なんだろう。





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研究ノート:内村鑑三とロシア




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 ケーベルを介して「ロシア」が日本に入ってきていたことと関連して、内村鑑三とロシア思想家の関係を簡単に紹介しておきたい。内村とロシアとの関係は、一九〇三(明治三六)年に日露戦争を前にして内村が非戦論をとなえたことから、ロシアで同じ声をあげたレフ・トルストイとの思想的関連ばかりが強調されてきた。しかし宗教思想家としての内村については、ドストエフスキーやその若い友人の宗教哲学者ヴラヂミール・ソロヴィヨーフとの関連にも目をむける必要がある。内村のキリスト再臨の信仰や、神のはからいとしての世界史の見方は、その内奥にはキリスト教神秘主義を含んでおり、それはドストエフスキーやソロヴィヨーフが生々しいヴィジョンとして抱いていたものである。
 内村自身、一九一八(大正七)年の説教「ツルーベツコイ公の十字架」で、ロシアの思想家への共感を語り、ロシアの思想家にはヨーロッパ人の理性とは違う「アジア人の情性」がある、「ロシア人の思想が日本人に了解せられやすきはすなわちこのゆえである。キリスト再臨につき最も深き印象を余に与えた者も、同じくロシア人たるウラジミール・ソロヴィエフ〔ママ〕であった」と告白している。
 また内村の一九二二年の日記には、チュービンゲン大学のハイム博士と会ったが、博士が「キリスト再臨信者であるのに、余は深く驚いた。博士は、同信の士としてドストエフスキー、メレシコフスキーらの大家を挙げた。実に愉快の至りである」と書いている。
 北大図書館蔵の内村文庫の一冊にアルセーニエフ著『神秘主義東方教会』の英訳がある。内村はこの英訳が出版された一九二六年にすぐに取り寄せて読んでいる。アルセーニエフがドストエフスキーについて書いている箇所には例外なく太いアンダーラインが引かれて、例えば『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の「兄弟たちよ、人間の悪意を恐れてはならぬ」ということばには、「無政府主義者に対しても」という書き込みがなされている。内村鑑三は「アジア人の情性」を持つロシアの思想家に触発されていたのである。
 ニコライについては内村は核心をついたことを言っている。
 「予がニコライ師に対して殊に敬服に耐へないのは、師が日本伝道を開始せられて以来、彼の新教派の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝へた事である」(「美しき偉人の死」、『正教時報』大正二年二月一〇日号)
 内村はニコライの葬儀に参列した。その後しばらくしてかれは駿河台を訪ね、「ニコライ師が五十年間の生活をせられた室内を参観」し、その質素な遺品を見て「深き感動」を受けたという。
    −−中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波新書、1996年、160−161頁。

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内村鑑三(1861−1930)とロシアの思想家といえばやはりトルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828−1910)という脊髄反射をしてしまいそうになりますが、決してそれだけではなかったという箇所を非常にコンパクトにまとまった一文がありましたので紹介しておきます。

プロテスタンティズム、カトリシズムにくらべると、やはり、(ロシア)正教関係というのは、日本ではなかなか広まっていないといいますか、理解がまったくすすんでない分野の一つなのですが(といっても前二者に関しても正確な理解が定着しているのかと問うた場合、!!!と疑問が大きく出てしまいますが)、その最初の巨人であるニコライ師(Nicholas of Japan,1836−1912)の足跡をたどった新書の中に一節がありましたものですから、冒頭に掲げさせていただきました。

しかし、ホント、内村鑑三の再臨思想というものは、西洋の着物を来たキリスト教遠藤周作(1923−1996)という観点だけでは理解しがいものがありますから、そのヘンの思想的交流・影響関係をきちんと整理してみるとおもしろい発見が沢山ありそうですね。

……ってことで、このへんで。

すいません、なかなか忙しいものでして・・・。






⇒ ココログ版 研究ノート:内村鑑三とロシア: Essais d'herméneutique


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【研究ノート】政府の目的は、人類の福祉にある。

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 一五七 この世界の事物は、絶えず流れているので、同じ状態に止っているものは全くない。そこで、人民も、冨も、商業も、権力も、その位置を変え、繁栄した強大な都市は亡び、時を経て、人に捨てられた、寂しい土地となるとともに、他方、他の、人の訪れぬ土地が、人口の大きな国となり、冨と住民に満ちてくる。けれども物事は決していつも平等には変化せず、私的な利益が、しばしば理由のなくなった慣習や特権を維持するし、時には立法府の一部が人民の選挙した代表から成っているような政府の場合、時と共に、この代表が、はじめてそれの設けられた時の理由からみて、極めて不平等、不均衡となるということが、しばしば起るのである。理由のなくなった慣習にしたがうことが、どんなに大きな不合理に導くかは、次の例で明らかである。というのは、家といったら羊の檻ばかり、住民といえば羊飼しかいないようなところが、町と呼ばれているばかりに、立法者の大会議に、人口の多い、富強な郡と同じだけの代表を送っている場合がある。知らない人は、これをみてびっくりする。そうして誰もが、矯正が必要だという。たいていの者は、しかしその方法を見付けることは困難だと考える。何故なら、立法府の組織法は、社会の本来的かつ最高の定めであり、そこでの一切の実定法に先行し、全く人民に依存しているので、下級の権力はそれを変えることができないからである。そこで、人民は、立法府が一たび構成されると、われわれが論じているような、そういう政府においては、政府が存続するかぎり、行動する権力を全くもたないのである。したがってこの不便は、これを救済することは不可能であると考えられている。
    −−ロック(鵜飼信成訳)『市民政府論』岩波文庫、1968年、159−160頁。

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 第十九章 政府の解体について

 二一一 政府の解体ということを、いくらかでも明快に論じようとすれば、何よりもまず、社会の解体と政府の解体とを明確に区別しておく必要がある。協同体を形成し、人々がルーズな自然状態を去って、一箇の政治的社会に入るようにするものは、一人一人が他の人々との間で結ぶ協定、すなわち団体をなし、一体として行為し、かくして一箇の独立の国家となるという協定である。この結合が解体される普通の、そうしてほとんど唯一の途は、彼らを征服する外敵の侵入である。というのはこういう場合には(自分たちを一つの全体としての独立体として維持保全することができなくて)、その団体の本質である統合が、必然的になくなり、各人は、彼らが前に属していた状態に戻ることになる。そうしてそこではめいめいが自活の道を講ずる自由があり、自分が適当と考えるところんびしたがって、何か他の社会で、自分の安全を確保する自由がある。もし社会が解体されれば、その社会の政府が存続できないことは確かである。それであるから、征服者の剣は、政府の根を断ち切り、社会をずたずたに切り裂き、征服され、追い散らされた群衆を、彼らの暴力から保護しなければならないはずの社会の、保護や依存から切り離してしまう。世間は、この種の政府の解体については、よく知っており、それを許すには、余りに進歩しているので、これ以上、このことについて述べる必要はない。そして、社会が解体されれば、政府は存続し得ないことを証明するために多くの議論をする必要はない。それはちょうど、一軒の家の枠組みは、その材料が旋風で吹き散らされ、散逸させられたり、地震でがらくたの山にくずされてしまった場合に、存立しえないのと同じである。

 二一二 このように外部からてんぷくされるほかに、政府は内部からも解体される。
    −−ロック(鵜飼信成訳)『市民政府論』岩波文庫、1968年、213−214頁。

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ロック『市民政府論』より。 「二二九 政府の目的は、人類の福祉にある。ところで、人民がいつも専制政治の無限界な意志にさらされているのと、もし支配者たちが、その権力行使に当って法外なものになり、その人民たちの財産の保存ではなしに、破壊のためにそれを用いる場合には、これに抵抗してもよいというのと、どちらがいったい人類の最善の福祉にかなうのだろう」。
    −−ロック(鵜飼信成訳)『市民政府論』岩波文庫、1968年、229頁。

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久しぶりにロック(John Locke,1632−1704)を読んでいたので少しだけ抜き書きをしておきます。

フィクションとしての国家という共同体を神話から解放した嚆矢となるのがロックの議論です。しかし、フィクションとしての国家というものも、できあがって時間がたってくると「再」神話化してしまうことがorzであり、最近その傾向が顕著になってきていることに違和感を覚えてしまいます。

どのような形態をとろうとも、国家(政府)の目的は何か……という根っこの部分を失念してはいけないのですが、その辺がスルーされてねぇ。

ホント、困惑してしまうというものです。






⇒ 画像付版 【研究ノート】政府の目的は、人類の福祉にある。: Essais d'herméneutique





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