日記:悪政を批判できない空気を醸成するのに加担するのは間接的な殺人に等しい

Resize4266










Resize3321

日記:SEALDs【なぜ野党共闘か】

Resize0629




SEALDs




Resize0097

日記:市民連合シンポジウム「2016年をどう戦い抜くか」1/23SAT〜

Resize0374





Resize4997

覚え書:「テロリズムに抗する思想 アルベール・カミュに学ぶ 寄稿 桃井治郎」、『毎日新聞』2015年04月20日(月)付夕刊。

Resize2109



        • -

テロリズムに抗する思想
アルベール・カミュに学ぶ
寄稿 桃井治郎(中部大学国際関係学部講師、国際関係学)


(写真キャプション)チュニスのバルドー博物館周辺で行われたイスラム過激派に抗議する行進で、チュニジアの国旗を振る市民たち=3月29日、ロイター

 3月18日、北アフリカチュニジアで日本人観光客3人を含む20人余りが殺害される博物館襲撃事件が発生した。本年1月にはシリアで日本人が2人殺害され、2ねんまえの2013年1月にはアルジェリアで日本人10人を含む28人が犠牲となるガスプラント襲撃事件が発生している。いずれもイスラーム過激派集団による犯行である。
 現代はテロリズムの脅威が世界に拡散したグローバル・テロリズムの時代と呼ばれる。それでは、こうした時代にわれわれはどのようにテロリズムに抗していけばよいのだろうか。


 アルジェリア生まれの作家アルベール・カミュは、1950年代に始まるアルジェリア独立戦争の時代に生きた人物である。処刑や拷問などフランス治安当局による徹底的な弾圧とアルジェリア民族解放戦線(FLN)による市中での無差別爆弾攻撃など、凄惨な闘争が繰り広げられた時代である。それはまさにテロリズムの時代であった。
 なお、カミュはフランス植民地主義を鋭く批判しつつも、FLNを支持しなかったため、フランスの論壇から転落していく。FLNを積極的に支援し、時代の寵児となったJ・P・サルトルとは対照的であった。
 カミュは、小説『異邦人』において、理屈では説明がつかない現実における「不条理」を描いた作家として知られるが、カミュに思想にはもうひとつ重要な概念がある。それが小説『ペスト』において描かれた「反抗」である。


 『ペスト』は、アルジェリア西部の町オランでペストが発生し、町が封鎖されるが、幼い子供を含む多くの住民が次々とペストに倒れていくというストーリーである。ただし、この作品のテーマは、こうした「不条理」な状況において人間はなにをなすべきかという点にある。
 主人公の医師リウーは、「不条理」な状況に対し、絶望してすべてをあきらめてしまうのでも、神に救済を祈るのでもなく、命を守るために自らの職務を果たすべきだと説く。それは「際限なく続く敗北」だと認めるが、それでも「戦いをやめる理由にはならない」とリウーは述べる。容認できない現実に対して拒否(ノン)の声を上げ、行動するというこのリウーの態度こそ、カミュの言う「反抗」である。そして、人間共通の護るべき領域の存在によって「反抗」には連帯が生まれるという。『ペスト』では自発的な保健隊の活動が描かれている。
 ただし、カミュは「反抗」と「革命」を区別する。「反抗」が、容認できない現実から出発して漸進的な改善をはかるのに対して、「革命」は、絶対的な正義から出発してその正義をむりやり現実化しようとする。その結果、上からの正義の実現を目指す「革命」には必ず暴力が付随し、正義と正義のぶつかり合いによる絶滅戦に至ってしまうのである。カミュの「反抗」論は、こうした暴力の連鎖に陥ることなく、社会の改善をはかろうとする態度である。それは「際限なく続く敗北」であるかもしれないが、それのみが暴力やテロリズムを排して社会を改善する唯一の方法であるとカミュは説く。
 テロリズムという不条理な現実に対して、いま、われわれがとるべきは、現実に絶望してあきらめてしまうことでも、絶対的正義を掲げてテロリズムを力で根絶しようとすることでもなく、暴力や恐怖によって社会を変えようとする暴力主義に「ノン」と声を上げて拒絶し、暴力を容認しない社会を一歩づつ作り上げていくことにあると筆者は考える。
    −−「テロリズムに抗する思想 アルベール・カミュに学ぶ 寄稿 桃井治郎」、『毎日新聞』2015年04月20日(月)付夕刊。

        • -




1


Resize2088


ペスト (新潮文庫)
ペスト (新潮文庫)
posted with amazlet at 15.04.22
カミュ
新潮社
売り上げランキング: 17,413


日記:「キリスト教の人ですか?」「創価学会の人ですか?」ただの普通の人です。

Resize1877_2




        • -


 「福祉事務所まで行くお金がないのだったら、私がお金を貸してあげましょう」
 気持ちをもう少し引き出すために具体的な提案をしてみました。電車賃は一六〇円です。
 貰うのがいやなら貸してあげることにすれば気持ちの負担は少ないでしょう。この具体的な提案にはすぐに反応してきました。
 「無料パスは持っているんですよ。」
 出して見せてくれました。ついでに運転免許証も見せてくれました。腕のいいタクシーの運転手だったと言います。運転免許証の期限は平成XX年。まだ先です。ということは、このようなぼろくずのような状態になって数年もたっていないのではないか、と推察されました。
 会話を交わすほどに垢と酒のにおいは強烈です。垢の匂いは私が我慢すればいいのですが、こんなに酒のにおいをさせて福祉事務所に行って、どう対応されるか不安になります。酒の失敗を繰り返して様々な関係性を崩壊させつつ転落し、ただ今現在の状態になった。このきっかけはなんであれ、今回は防波堤になるものをすべて失ってまっしぐらに落ち込んで、ここに行き倒れていたのではないでしょうか。髪やひげの状態から、既に半年くらいはあてもなくさまよい続けているように思われました。
 「アル中なんですよ、アル中。アル中でさんざん失敗をしてきてこんななんですよ。酒をやめるしかない」
 つぶやくように言います。
 問われたわけでもないのに、男性本人の口から直接アルコール依存のことが語られて、さらに核心に飛び込めたと思いました。私は話しかけてすぐに、この人はアルコール依存症でこうなっているのでは、と疑いを持っていました。でもそのことは私が問いただうことではありません。きちんとした人間関係も成立していない私から、「あなた、アル中でしょ」などと言われて、その人間関係が深まるなんてことはありませんし、アル中であるか否かを特定したところでこの際何の役にも立たないことです。自分から進んで語ったことで、私に何かを訴えたい、何とかしてもらいたい、何とかしたいというかすかな意思が感じられました。
 「だったらお酒をやめることを考えなきゃあ。ともかく、今のあなたは、体を休めることが必要なんでしょう?」
 力を込めて問い返しました。
 「あなたはどうしてこんなに親切なんですか。誰も声なんかかけてくれなかった。キリスト教の人ですか?」
 突然こんな質問が出てきました。今までの私の呼びかけに受動的に応えるだけだった会話が能動的に私への関心に切り替わった瞬間です。
 キリスト教の人と聞いて、グッド・サマリタンを思い起こしました。聖書の中の逸話です。誰も声をかけなかったのにそのサマリヤ人だけは道に行き倒れている人を見過ごさなかったという逸話を思い浮かべていました。でも、単純に応えました。
 「いいえ」
 「創価学会の人ですか?」
 「いいえ」
 「それじゃあ、ただの普通の人ですか?」
 「まあそういえばそうです」
 「ただの普通の人がどうしてこんなに親切なんですかぁ」
    −−宮本節子『ソーシャルワーカーという仕事』ちくまプリマー新書、2013年、62―65頁。

        • -



1_2




覚え書:「SPORTS×LIFE:国家主義と人種差別」、『毎日新聞』2015年03月31日(火)付。


Q1


        • -

SPORTS×LIFE:国家主義と人種差別 横断幕問題1年 浦和、意識向上励む
毎日新聞 2015年03月31日 東京朝刊

(写真キャプション)浦和レッズの試合前、差別撲滅宣言の署名をするサポーター

 スポーツを取り巻くさまざまな話題を取り上げる特集「SPORTS×LIFE」の今回のテーマは、「ナショナリズム国家主義)」と「レイシズム(人種差別)」。昨年3月、サッカーJリーグ・浦和レッズの試合でサポーターが差別的な表現の横断幕を掲げ、浦和が無観客試合の処分を受けてから1年。国家主義的な動きや人種差別は国内だけでなく、世界のスポーツ界で広がっている。そんな問題を改めて考えてみたい。【滝口隆司】

 14日、浦和が今季Jリーグの本拠地初戦を迎えた、埼玉スタジアム。試合前、スタジアムの外には「SPORTS FOR PEACE!(平和のためのスポーツ)」というキャンペーン活動のブースが設けられ、署名活動が行われた。

 「宣誓書」と書かれた用紙には「人種、肌の色、性別、言語、宗教、または出自などに関する差別的あるいは侮辱的な発言または行為を認めないことを宣言します」と記され、賛同するサポーターたちがサインしていく。署名した人には常に携帯できるよう、宣誓書の文言や「SAYNOTORACISM(人種差別にノーを)」という標語が書かれた二つ折りの小さなカードが手渡された。

 昨年3月8日、浦和は埼玉スタジアムでの鳥栖戦で、サポーターが観客席入り口に「JAPANESE ONLY(日本人限定)」という横断幕を掲げ、これが差別にあたるとしてJリーグから同23日のホームゲーム、清水戦を無観客試合とする処分を受けた。

 それから1年。署名活動のブースには無観客試合の時に阿部勇樹主将が「サッカーを通じて結ばれた、大切な仲間と共に、差別と戦うことを誓います」と述べた宣誓文の立て看板も設置された。

(写真キャプション)試合前、さいたまスタジアムのピッチに持ち込まれる「FAIR PLAY」(中央上)と「SPORTS FOR PEACE!」のフラッグ=いずれも埼玉スタジアムで14日

 浦和は、国連の事業をアジア太平洋地区で広める非政府組織(NGO)「国連の友アジアパシフィック(AP)」と提携し、2010年から「SPORTSFORPEACE!」の活動を開始。スポーツによる平和運動を推進する国連本部のプロジェクトに沿って、アジアでの草の根国際交流や東日本大震災の復興支援などを進めてきた。また昨季からは「差別的発言・行為」の禁止をこの活動に組み込み、「安全なスタジアム作り」を掲げていた。だが、そんな中で横断幕の問題は起きた。

 クラブに助言的な役割を果たしてきた国連の友APの金森孝裕理事は「この問題には、国連本部の(開発と平和のための)スポーツ局も関心を持った。世界各地で起きている差別が、日本でも起こったという認識だった。これは浦和だけの問題ではない」と強調する。

 昨年の問題発生後、浦和は国連の友APとの共同作業で差別撲滅への行動計画を策定。ファンやサポーターだけでなく、選手、指導者、スタッフの意識向上を目指し、教育・啓発活動、勉強会などを5年かけて進めていく方針だ。

 昨季は問題が起きた後に横断幕の掲出を禁止したが、今季は事前申請など一定の条件をつけて解禁。金森理事は「罰則を厳しくするだけではスポーツの楽しみは奪われてしまう。『エデュテインメント』(教育と娯楽を掛け合わせた言葉)というように、スポーツの楽しみを大切にしながら教育的な効果を求め、寛容性や尊厳の意識を高めていく必要がある」と話している。

 ◇「ナチス式敬礼」独では処罰対象 ギリシャのサッカー選手、代表から永久追放

(写真キャプション)ドイツを訪問し手を高く掲げ敬礼するイタリアのファシスト党指導者ベニト・ムッソリーニ(左)とアドルフ・ヒットラー・ドイツ総統=ドイツ、ミュンヘンで1937年

 スポーツの場面で見られるポーズが、国家や民族に関わる観点から議論の的になることもある。

 2013年3月16日、ギリシャの国内サッカーリーグの試合で、ヨルゴス・カティディス(AEKアテネ)がゴールを決めた後に、右手を斜め上に真っすぐ挙げて喜びを表現した。このポーズが「ナチス式敬礼」だとして厳しく批判され、ギリシャ代表チームからの永久追放処分を受けた。

 ナチス式敬礼は、第二次世界大戦前のナチス・ドイツヒトラーへの忠誠を誓う姿勢として、さまざまな場面で行われた。1936年ベルリン五輪の開会式でも、各国選手らがヒトラーに向けてこの敬礼を求められた。

(写真キャプション)今年の選抜高校野球大会で選手宣誓をする敦賀気比の篠原涼主将=甲子園球場で21日、森園道子撮影

 ローマ帝国の軍団の敬礼が起源で、23年にイタリアのムソリーニが率いるファシスト党で採用。それを33年にドイツを支配したナチスも導入したといわれる。

 戦後、ドイツではこの敬礼がナチス賛美をあおり、ナチスの犠牲になった人々への敬意を損ねるとして処罰の対象となった。欧州の数カ国でも同様に、厳しい目を向けられている。カティディスは「ポーズの意味を知らなかった」と弁解したが、サッカーで保たれるべき平和を傷つけたと判断された。

 日本のスポーツの大会では今も、開会式の選手宣誓で右手を高く伸ばした姿勢がしばしば見られる。ベルリン五輪の時の整然とした様子にならって日本でも取り入れられたという説がある。あまりに一般的に普及し、宣誓にふさわしい美しい姿勢と考えられている面もあり、ナチス式敬礼との関係を問われることは少ない。しかしドイツなどの人々からすると、奇異にも見えるという。

 五輪では現在、選手や審判員の宣誓は、右手は伸ばさず、片手で五輪旗の端を握って行われる。日本の高校野球では、都道府県の大会では今も右手を伸ばす姿勢が多いが、甲子園では、夏の全国選手権大会は50年代から、春の選抜大会も95年から手を挙げず、自然な言葉と姿勢で行うことが一般的となっている。【石井朗生】

==============

 次回は6月30日に掲載予定
    −−「SPORTS×LIFE:国家主義と人種差別 横断幕問題1年 浦和、意識向上励む」、『毎日新聞』2015年03月31日(火)付。

        • -


http://mainichi.jp/shimen/news/20150331ddm035050129000c.html




        • -

SPORTS×LIFE:国家主義と人種差別 一橋大大学院社会学研究科・坂上康博教授に聞く
毎日新聞 2015年03月31日 東京朝刊
 
 ◇対戦国知り国際理解深めて

 NHK放送文化研究所が2013年に行った「日本人の意識」という調査によると、1980年代にピークだった「日本への自信」が、00年代後半になって再び上昇し、今や80年代と同じ水準に達した。

 第一はノーベル賞など「科学技術分野」での日本人の快挙であり、次いで「スポーツ分野」での日本人選手の活躍が理由に挙がっている。日本人の誇りやアイデンティティーを取り戻すのに、スポーツが果たしている役割は小さくない。

 だが、逆に問題点もある。日本人の活躍に報道が焦点化され、メディアは日本の応援団となってしまっている。サッカーの国際試合でも相手チームの国情、選手の所属クラブやそこでの活躍など、詳しい情報があまり伝えられない。

 スポーツは本質的に、反レイシズムの要素を持つ文化だ。国境を超え、言語をも超える。絵画や音楽以上に単純明快であり、対戦国チームや外国人選手という生身の人間を通して国際理解を深めることができる。

 スポーツ界では90年代からグローバル化が進んだ。欧州で労働者の移動が自由となり、欧州内ではサッカー選手の移籍も自由化された。それに伴い、サポーターが相手チームの選手を挑発する形で差別的な問題が生じた。島国である日本は他の民族とかかわる機会が少なかったが、グローバル化の進行は「外からの脅威」を感じさせ、ナショナルな感情を刺激する。その影響がスポーツ界にも表れてきた。

 日本人は戦後、ナショナリズムに対する警戒心が強く、そういう感情を抑えてきた。最近の若者は五輪やサッカー・ワールドカップの応援を通じ、国旗や国歌にアレルギーを感じなくなっているが、それらは応援の延長線上にあり、保守的な政治家が主張する「愛国心」とは分けて考える必要がある。

 64年東京五輪をもう一度思い起こすべきだ。64年大会は「世界平和」という五輪運動の大きな理念の下に世界の若者が集い、友好を深めた。5年後の東京五輪も、メディアはこの理念を見据えて、試合ばかりではなく、選手村での選手たちの交流や試合後のたたえ合う場面などを伝えてほしい。それはレイシズムを封じ込める重要な力となるはずだ。【聞き手・滝口隆司】

==============

 ■人物略歴

 ◇さかうえ・やすひろ

 1959年、大阪府生まれ。高知大卒、一橋大大学院社会学研究科博士後期課程単位取得満期退学。スポーツ史やスポーツ社会学を専門とし、著書に「にっぽん野球の系譜学」「スポーツと政治」「幻の東京オリンピックとその時代−戦時期のスポーツ・都市・身体」(共編著)など。
    −−「SPORTS×LIFE:国家主義と人種差別 一橋大大学院社会学研究科・坂上康博教授に聞く」、『毎日新聞』2015年03月31日(火)付。

        • -


http://mainichi.jp/shimen/news/20150331ddm035050138000c.html



        • -

SPORTS×LIFE:View グローバルと排斥主義
毎日新聞 2015年03月31日 東京朝刊

 ドイツの首都ベルリンの南西170キロに位置するマクデブルクは、旧東独の工業都市だ。2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会を前に世界のサッカー事情を探る連載を担当した際、この町の「1FCマクデブルク」というクラブを取材した。

 ベルリン在住の通訳に取材先を告げると、「あの町は危険ですよ」といい顔をされなかった。暴力的で外国人排斥思想を持つネオナチが多いことで知られていた。かつて重工業で栄えたが、東西ドイツ統一後は失業率が高まり、外国人労働者への反感が募っている。たとえ取材でも外国人を攻撃してくる可能性があるという説明だった。

 当時、欧州サッカー界には多国籍の選手が入り交じるようになっていた。欧州の経済統合に向けた影響がサッカーにも及び、欧州内での移籍が自由化されていたからだ。別の旧東独クラブを取材すると「うちはアフリカやボスニア・ヘルツェゴビナから安い選手を買ってきて育て、高値で西側クラブへ売り飛ばす。その差益で経営している」と言われた。選手の移籍金が重要な収入源になっていた。

 1FCマクデブルクもそうした流れの中にあった。当時の記事を読み返すと、トップチームの24人中8人は外国人。東欧出身者が大半を占めていた。ネオナチの勢力が強い中で、外国人の雇用には慎重さも必要だったが、クラブの会長は「外国人選手をその場しのぎの使い捨てでは雇わない。うちにはポーランド人の人気選手もいるが、市民は彼をドイツ人と思っている」と言い切り、地元にクラブや選手が溶け込んでいることを強調した。

 ある大学の研究者から「『グローバル』と『インターナショナル』の違いを知っていますか」と聞かれたことがある。グローバルは国境なき世界を目指す考えであり、インターナショナルは国境を保った上で国際的な交流を示す。東西統一後のドイツはグローバルな波にのみ込まれ、我々を取り巻く今の世界も同じ方向に進みつつあるように見える。

 その反動が排斥主義を生むのかもしれない。だが、そんな時代だからこそ、グローバルな世界に生きる意味を深く考えてみたい。スポーツにはそのヒントが詰まっている。【滝口隆司】
    −−「SPORTS×LIFE:View グローバルと排斥主義」、『毎日新聞』2015年03月31日(火)付。

        • -


http://mainichi.jp/shimen/news/20150331ddm035070143000c.html


Q11


Resize1841



日記:生き方としての民主主義

A1

        • -

生き方としての民主主義
 現在の政治状況に対して多くの人が感じる無力感は、民主主義というものを、国会とか選挙といった制度的な側面から捉えていることによって生じているのではないだろうか。デューイにとって民主主義とは、もっと豊かな意味を持つものであった。
 彼にとって民主主義とは、多様な人びとが協働し連帯し、それによって生活を営んでいく際の、人びとの生き方の問題なのである。平等で民主的な社会では、政治だけでなく、科学や芸術、倫理、宗教といった領域においても、民主主義の習慣が、人びとのあいだで共有されている。そうした社会において人びとは、自らの個性を追求し、相互交流によって、常に変化していく。そして人びとは、話し合いによって物事を決めていく。それが、デューイの考える、生き方としての民主主義である。
 しかしながら、その実現は容易なことではない。一般的に人びとは、宗教や道徳など、ある種の権威に従って生き方を決めている。制度としての民主主義がいくら整っても、人びとの生き方が民主主義的なものになるとは限らないのである。そこで必要となるのが、公教育において民主主義の習慣と生き方を学ぶ機会を提供することであり、「民主主義の発祥地」であるコミュニティに参加し、自治の経験を重ねることであるとデューイは考えた。
 アメリカに滞在した時、トクヴィルは、入植者たちが作り上げたコミュニティに端を発するタウンミーティングによる自治に、アメリカの民主主義の原点を見出した。そこでは、コミュニティにおける自治が身近にあり、郡と州は少し遠くにあって、連邦としての国家はさらに遠くにあった。リップマンとデューイが問題にしたのは、このコミュニティにおける人びとの紐帯が解体され、バラバラな個人がただ寄り集まっただけの「大社会」が生まれたということ、そしてその社会において、人びとの公共的な意識をいかに再生させるかということである。ひるがえって視点を現代日本へ転じてみれば、この社会もまた、アメリカと同じような道程を辿っていることが分かるだろう。
 しかし、いま必要なのは、伝統的なコミュニティをそのまま復活させることではない。それではうまく行かない。それでは、すでに大人になっているのに、子どもの頃の服を無理やり着せるようなことにしかならない。確かに時代は変わったが、だからといって、すべてが失われてしまったわけでもない。いま必要なのは、この時代にマッチした、新たな習慣と生き方を創造することである。
    −−大賀祐樹『希望の思想 プラグマティズム入門』筑摩書房、2015年、112−113頁。

        • -

http://www.asahi.com/articles/DA3S11681077.html



Resize1830



希望の思想 プラグマティズム入門 (筑摩選書)
大賀 祐樹
筑摩書房
売り上げランキング: 136,968