覚え書:「千の証言:戦後70年/1 兵士たちの体験(その2止) 人間の尊厳、消えた」、『毎日新聞』2015年01月20日(火)付。


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千の証言:戦後70年/1 兵士たちの体験(その2止) 人間の尊厳、消えた
毎日新聞 2015年01月20日 東京朝刊

 ◇ルソンの蛍に亡き兄思う 東京都東大和市・星野久子さん(83)

 「椰子(やし)の木に飛ぶ蛍は大きくて灯(あか)りの様に美しい」。兄は、戦地より軍事郵便はがき一通のみの便りを寄こして、フィリピンのルソン島=地図<2>=で戦死しました。この言葉はそのはがきに書いてありました。遺骨は還って来ませんでした。空(うつ)ろな骨箱を抱いて涙をこらえていた母、亡くなるまで一言も兄のことを語らなかった父。今更ながら、家族の悲しみを深くかみ締めています。

 蛍が美しく飛ぶ季節が廻(めぐ)り来る度に、戦死した兄達の事や戦争の悲劇が遠ざかって行きます。異国の戦野の土に埋もれたまま、故国の土へ還る事の出来ない兵士の無念の思いが、胸に迫ります。決して戦争の出来る国になってはならないと、強く強く願わずにはいられません。

 ◇ソロモン諸島、みんな死んだ 福岡県宗像市・梶木誠さん(94)

 私は昭和18(1943)年5月に陸軍補充兵として、台湾の高雄からフィリピン・セブ島に送られた。そこで船舶工兵の訓練を受け、その年8月に南太平洋のソロモン諸島へ行った。ソロモン諸島コロンバンガラ島=地図<3>=で玉砕寸前だった友軍1万2000人を救出するため、上陸用船艇「大発」で向かった。そこで中隊の参加人員の半数にあたる57人を亡くした。

 以後はコロンバンガラ島北西のブーゲンビル島で、人員や物資の運搬に従事した。日本本土からの食糧、薬、弾薬の補給はなく、44年以降には米もなくなって、ジャングルを切り拓(ひら)き、イモを植えて、命をつないだ。大発もほとんど沈んだ。私は幹部候補生として35人を集めた教育を現地で受けたが、栄養失調やマラリヤで次々と戦病死した。終戦まで生き延びたのは私を含む9人だけだった。

 ◇ラバウル、痩せ衰えた患者たち 埼玉県深谷市・小暮吉子さん(91)

 「み、み、水を下さい」。太平洋戦争も終わりに近づいた昭和19(1944)年1月、私は日赤救護班看護師の一員として南太平洋はニューブリテン島ラバウル=地図<4>=にあった海軍第八病院に勤務していた。

 ある日10名位の患者がトラックで運ばれて来た。皆、痩せ衰え、トラックから降りられない状態であった。飲まず喰(く)わずでジャングルの中を何日も彷徨(さまよ)ったと聞く。そして開口一番の言葉は「み、み、水を下さい」の嗄(か)れた声であった。カップ一杯の水を上げると、喉を鳴らして一気に飲み干した姿は哀れで、70年たった今でも脳裡(のうり)に焼きつき忘れられない。

 ここは井戸がなく雨水を利用していたので雨が降らないと困ることが多く、スコールがあると夜中でも起きて洗濯をした。今の世は、水も食べ物も豊富で困らない時代である。戦争を知らない若い世代に戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させてはならないと思い、今回筆をとった。

 ◇台湾の兵には「なまくらの剣」 広島県福山市池田敏美さん(90)

 昭和20(1945)年2月、20歳で台湾=地図<5>=に出征しました。波間にゆれる門司港の灯を船から眺めながら、学徒出陣(京大経済)の見習士官は、私のそばで自分に言い聞かす様に語りました。「内地の軍人は国民に威容を見せるため、軍装などはまだ立派だが、我々外地へ行く兵は、生地の悪い軍服、帯剣の中身はなまくらの鉄(かね)だ」。竹をつないだ救命具などを互いに見ながら、軍の妄想を話した。敗戦の坂を下るあの時を思い出します。

 ◇満州から復員、不戦誓った父 北九州市小倉南区・桜井恵子さん(67)

 私の父は、職業軍人で、陸軍少尉として昭和14(1939)年5月、旧満州に赴任しました。私は子供の頃、父からたびたび戦争の話を聞かされ、その悲惨さにショックを受けましたが、ピンとこないところもありました。

 父は、ただ黙々と帽子商に励んでいました。父は81歳の生涯を閉じる前、手書きで500ページを超える「わが人生」という戦争体験記を子供3人に残しました。それを読んで、父がなぜこれまで自分を制して生きてきたのか理解できました。

 私は今、ボランティアで「歌って踊ってバラエティー」ショーを高齢者施設などで披露しています。笑いあり涙ありの一人芝居ですが、戦争の話も盛り込んでいます。「人間の尊厳が吹っ飛ぶような悲惨な戦争は二度とあってはならぬ」。父の残した言葉です。この父の癒やされることのなかった思いを、多くの方に伝えたいと念じています。

 ◇シベリア抑留の父、ネズミ食べた 神戸市北区・雲井節子さん(73)

 父は昭和18(1943)年10月に召集令状が来て、陸軍2等兵として臨時召集され、母と2人の子(私2歳、妹0歳)を残し、満州北部に送られ、歩兵第24部隊補充隊の虎林分隊に入隊した。水上勤務に編入され、ソ連満州国境のウスリー川=地図<6>=の駐屯部隊で「ヤンマー船」の機関長として糧秣(りょうまつ)燃料の配達任務に従事する。昭和20年8月15日、鏡泊湖の近くで終戦を迎える。

 父が亡くなった後、遺品から、日本へ帰って来て当時を思い出しながら書いたと思われる回想録が出てきた。終戦の後に日本に帰らせてもらえないでソ連の捕虜としてシベリアに強制連行されたそうだ。その時の事がいろいろ書かれていた。連行される時からの非人間的な扱い、シベリアでの過酷な日々、食べる物も少ししか与えられず重労働。日本兵に対して虫けら同様の扱いをする。毎日が空腹で食べるものもなく、ヘビ、カエル、でんでん虫、ネズミ等つかまえて食べたそうだ。

 ある日、畑のジャガイモを5人で盗みに入った。見つかれば銃殺。ところが見つかった。銃を胸につきつけられたが、誰も殺されなかった。が、後が悪い。銃の先でつつかれ、叩(たた)かれ、蹴られ、殴られた。昭和23年5月に帰って来たが、生き地獄であったと書いてある。戦争の悲惨さを子孫に伝えたくて、書き残しておいたものと思う。


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