覚え書:「未来への発想委員会:経済成長を問い直す:上」、『朝日新聞』2015年01月23日(金)付。

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未来への発想委員会:経済成長を問い直す:上
2015年1月23日

 この20年ほどの日本では、「経済成長」は追いかけても手が届かない「逃げ水」のようだった。いつかは手が届くのか。どうすればいいのか。そもそも、成長を手に入れれば幸せになれるのか。朝日新聞社の「未来への発想委員会」の委員とゲスト、記者が交わした議論を、2回にわたって紹介する。

 ■「富の集中戦略」でいいのか 《ゲスト》日本大教授・水野和夫(みずのかずお)さん

 成長や進歩は近代が作り出した概念である。近代とは「より速く、より遠く、そしてより合理的に」行動すれば、成長し進歩できると固く信じる社会である。産業革命以降、世界の1人当たり成長率(生活水準)が「革命」的に上昇したのは、人類が化石燃料による動力を得て、「より速く、より遠くへ」を可能とし、20世紀の技術が、少ない投入でより多くの産出を得るよう効率性(合理性)を高めたからだ。

 「より速く、より遠くへ」は市場の拡大と生産量増大を意味し、「より合理的に」は粗利益率を改善させる。経済成長のメカニズムとは、この二つの積で表される「実物投資空間」の拡大に他ならない。

 1970年代の2度の石油危機が効率性を悪化(交易条件の悪化)させたので、ますます「より遠く、より速く」に拍車がかかった。その推進役がグローバリゼーションだった。新興5カ国「BRICS」の時代が訪れ、アフリカにまで広がった。

 それと並行して、金融工学と情報技術が一体化し「電子・金融空間」を創出した。レバレッジ(テコの原理)を高めたり金融派生商品を駆使したりして空間を膨張させたが、2008年リーマン・ショックで大収縮すると、次に証券取引所がナノ(10億分の1)秒単位の高速取引を競い始めた。

 資本主義を資本の自己増殖プロセスと定義すれば、「実物投資空間」ではもはや資本は増えない。交易条件は悪いしアフリカの先に「新しい空間」はないからである。

 資本の利潤率と国債の利回りはほぼ同じ動きをする。だから日本やドイツの10年国債利回りは1%を下回り、前人未到の領域に突入した。従来の記録は17世紀初頭のイタリア・ジェノバの1%台前半。このころ中世の地中海世界の資本主義が終わった。

 超低金利の21世紀、資本が自己増殖するのは「電子・金融空間」しかない。ここでの成果を測る尺度は「利子率」ではなく「株価」。無理につり上げても、バブルが膨らんではじける繰り返しになる。

 トマ・ピケティが「21世紀の資本」で指摘するように、身分や相続に頼らず個人の能力が発揮できる社会だったのは戦後から1970年代までのわずか30年ほどだ。しかも、戦争というショックとその後の一連の政策が富の集中を逆回転させたのであって、近代の理念がそうさせたのではない。

 近代には機会均等のもとで能力に応じて富を蓄積させるメカニズムは組み込まれていない。これを放置したままの成長戦略は「富の集中戦略」だ。未来にはアンシャン・レジーム(旧体制)が待っている。

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 53年生まれ。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト、内閣審議官などを経て13年4月から日本大学国際関係学部教授。

 ■制度設計は現実的な予想で 大阪大副学長・大竹文雄(おおたけふみお)さん

 「これからは経済成長を目指すべきではない」という主張と、「低成長を前提として制度を設計すべきだ」という主張は似ているようでずいぶん違う。

 前者は、日本は十分豊かになったのだから経済的な豊かさよりも、自然環境、精神的豊かさや分配を重視した社会にすべきだという主張につながることが多い。生活水準は低下しても構わないという立場だ。

 後者は、経済成長を目指すべきだが、現実的な成長率を前提に社会保障制度や財政制度を設計すべきだという考え方だ。

 私は後者の立場だ。

 前者の意見の人たちの中には、いくつかのグループがある。第一に、比較的高齢の人たちで、資産を蓄えているためこれから先経済成長しなくても豊かな生活が維持できるという予想をもっている人たちだ。確かに現在の若者は、現在の高齢者が若かった頃よりも豊かかもしれない。しかし、現在の若者にもっと貧しくなってもいいか、というとイエスと返事をする人は少ないのではないか。

 第二に、無理にがんばらなくても現在の生活水準を維持するだけならもっとのんびり暮らせばいいのではないか、という考え方もあろう。しかし、多くの人が必死に仕事に取り組んで、ようやく現在の生活水準を維持できるのが実態である。かつてのように高学歴の労働者が先進国にしかいなかった時代は、日本の人材は世界的に希少で価値が高かった。しかし、現在では新興国の発展でその優位さはずいぶん弱まった。精いっぱいがんばってようやく現状を維持できているのだから、努力を怠るとあっと言う間に所得水準は低下してしまう。

 一方で、経済成長さえすれば、増税しなくても、社会保障財政赤字の問題が解決するのだから成長を目指せばいいという考え方の人も多い。確かに、それができれば理想だ。しかし、人口減少が進む中で、長期にわたってGDPの成長を見込むということは、相当の生産性の上昇を達成することを必要とする。人口減少率を打ち消すだけの生産性上昇だけでも大変だ。

 イノベーションの促進、教育の充実、競争的環境の強化、規制改革などで、ある程度の生産性向上は可能だと考えられる。ただし、そうした効果は漢方薬のようにじわじわと効いてくるもので、即効性はない。私たちが、楽観的な成長率予想で制度設計をした結果、被害を受けるのは将来世代だ。

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 61年生まれ。専門は経済学。著書に「日本の不平等」「競争と公平感」。Eテレの経済学番組「オイコノミア」に講師役で出演。

 ■個人消費の増加に目標絞れ 日本総研主席研究員・藻谷浩介(もたにこうすけ)さん

 「もっと経済成長すべきだ」「いや、もはや成長を目指すべきではない」という、対立する「べき論」。筆者はどちらにも同調できない。

 「里山資本主義」を出版したら経済成長否定論者と勘違いされることが増えた。表題だけで批評するのは禁物だ。筆者も、本で紹介した里山の住人たちも、経済成長で得た今の日本の生活水準を享受している。「里山で自給自足しろ」と書いたのではない。

 だが話を「今の日本」に限定し「さらなる経済成長を目指すべきか」と問われれば、「経済成長率よりも的確な、目標指標が別にある」と答える。そちらを追求すれば、結果として経済もまだなお成長するかもしれない。だが逆に経済成長率の追求が先にたてば、ミニバブルが生成・破裂し、さらに多くの政府債務が残るだけだ。現にこの20年間はその繰り返しだった。

 20年前に比べ日本の輸出額は1・8倍に増えたが、小売り販売額は微減だ。外需拡大が内需増加を生まない日本では、輸出分を含むGDPよりも、国内の個人消費増加に目標を絞ることが的確なのだ。

 しかるにその個人消費は、日銀がマネタリーベースをバブル期の6・5倍に増やし、株価も最近3年間で倍増したのに、消費増税前後の駆け込み需要と反動減をならしてみると横ばいのままだ。増税先送りで駆け込み需要の起きない今年も停滞が続くだろう。

 その理由の第一は、96年から15〜64歳の生産年齢人口が減少に転じ、就業者数が増えなくなったこと。失業「率」と絶対数の動きは違う。第二は、戦後世代の加齢で急増する高齢者の、貯蓄防衛意識の高さと実物消費意欲の低さ。インフレになっても、彼らの多くは消費を増やさない。

 内需を拡大するのは、就業者の圧倒的多数を占める中小企業の勤務者や非正規労働者(特に女性)の賃上げだ。だが、円安による輸入原材料価格上昇がその原資を損なう。

 以上のようなブレークダウンなしに、「とにかく経済成長しなければ国の借金が返せない」と、日銀の国債買い支えに頼った歳出拡大でさらに借金を増やし、円安による国富流出でさらに内需を損なう姿は、「とにかく資源確保」と戦線を拡大し、泥沼にはまった大戦中を想起させる。

 「この道しかない」と思いつめるのは不勉強だ。「日本では金融緩和が内需を拡大させない」ことをこの20年の現実から学び、中小企業に賃上げを可能ならしめる政策を工夫することこそ、本当の経済成長に向けた第一歩である。

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 64年生まれ。日本政策投資銀行特任顧問、地域経営支援ネットワーク理事長。著書に「デフレの正体」「里山資本主義」など。

 ■再分配優先し豊かさ実感を 千葉大教授・広井良典(ひろいよしのり)さん

 経済成長を一律に否定はしないが、それを最優先の政策目標にすることは、次のような理由でマイナスの方がはるかに大きいと私は考える。

 振り返れば、歴代の自民党政権は1990年代には公共事業によって、2000年代の小泉政権では規制緩和によって、景気回復を図ろうとしてきた。それらがいずれも機能せず、「貨幣の量を増やす」という危険な奥の手を軸に成長を図ろうとしているのが現政権である。しかし、日本のGDPは90年代半ばからおよそ20年にわたって500兆円前後でほとんど変わっていない。これは短期の“景気”といった問題ではなく、これだけモノがあふれる世の中になって、人々の需要がおおかた飽和しているからだ。

 私が何より危惧するのは、経済成長を優先するという名の下で、分配や負担の問題が先送りされ、結果として膨大な借金(1千兆円を超える)を現在の若い世代そして将来世代にツケ回ししていることである。“成長がすべての問題を解決する”という、高度成長期に染みついた発想から脱却することこそが日本社会の最大の課題ではないか。

 では何を優先的に行うべきか。第一に再分配を通じた格差の是正や「機会の平等」の保障である。これは多岐にわたるが、特に「人生前半の社会保障」を通じた若い世代への支援の強化を強調したい。たとえば毎年の年金給付は現在50兆円以上に及ぶが、高所得者の報酬比例年金への課税を強化し、それを若い世代に再分配するといった政策などが考えられる。実はこうした政策は結果として成長や出生率改善にも寄与するだろう。

 第二に労働時間の削減である。先進諸国の中で労働時間が特に長いのが日本と米国だが、この削減は過労死などを減らし人々の健康状態を改善するとともに、創造性や余暇消費の拡大を通じ経済の活性化にもプラスになるだろう。

 第三はローカルな経済循環を高める支援策であり(自然エネルギーなど)、これは地域コミュニティーの持続可能性や雇用創出にもつながる。

 こうした政策を通じ、私たちが実現していくべきは「定常型社会」と呼びうる社会像である。それは現行よりも高負担型の社会となるが、上記のような将来世代へのツケ回しや財政破綻(はたん)を防ぐとともに、今より確実に「豊かさ」の実感が増す社会になると私は考える。人口減少社会ともなった現在、従来の“拡大・成長”路線とは異なる発想のビジョンを構想していくことが何より求められている。

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 61年生まれ。専門は公共政策、社会保障論。著書に「コミュニティを問いなおす」「人口減少社会という希望」など。

 ■「不要論」では現役世代犠牲に 津田塾大教授・萱野稔人(かやのとしひと)さん

 ここまで豊かになったのだから経済成長はもう必要ない、という意見をときどき聞く。本人はそれで何かを戒めようとしているのかもしれない。しかし、それは同時にとても身勝手な意見でもある。

 日本の社会はこれから、現役世代の人口が減っていくなかで増え続ける高齢者の福祉を支えていかなくてはならない。もし経済成長がなければ、高齢者の福祉を支えるための現役世代の負担は増す一方なので、現役世代はどんどん貧窮化していくことになるだろう。足りない財源を政府の借金で補ったとしても、その赤字分は将来の現役世代が返済しなくてはならないわけだから、現役世代が貧窮化していく点は変わらない。

 つまり「経済成長はもう必要ない」という意見は、誰かを貧窮化するという犠牲のうえでのみなりたつ意見なのである(この点でいうと、「経済成長はもう必要ない、それよりも高齢者福祉をもっと充実しろ」という意見は二重に現役世代を貧窮化させることになる)。

 ただその一方で、経済成長することを当然の前提にして政府予算を決めたり、社会保障を設計したりすることは慎まなくてはならない。経済成長はめざすべきだが、それを当てにして政府予算や社会保障費を増額してしまうと、経済成長しなかったときに政府の債務がいっきに膨らんでしまうからだ。その政府債務は将来の現役世代が返さなくてはならないから、この場合も将来世代を貧窮化させてしまう。経済成長があたり前のものではなくなった現代では、集めたお金を分配する財政や社会保障もそれに見合ったかたちに変えられなくてはならないのだ。

 では、経済成長をするために政府債務を増やしてでも財政出動をしなくてはならない、という意見はどうだろうか。これは難しい。

 この場合、財政出動をしたことで実際に経済成長が達成されるなら問題ない。GDPの成長に伴って増えた税収で政府債務を返済すればいいからだ。問題は思ったように成長できなかったときである。政府債務だけが増えてしまう。たしかにそのときでも何もしないよりはましだったかもしれない。しかし将来世代にツケをまわすことになる。

 バブル崩壊後、日本はこれを20年間つづけてきた。その結果、財政の持続可能性が疑問視されるまでに政府債務が膨らんでしまった。はたして「機動的な財政政策」を掲げるいまの安倍政権はその轍(てつ)を踏まずにすむだろうか。

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 70年生まれ。専門は哲学、社会理論。著書に「国家とはなにか」「超マクロ展望 世界経済の真実」「没落する文明」など。

 ■成長もたらした「経済的自由」 京都大教授・待鳥聡史(まちどりさとし)さん

 経済成長は必要なのか。望ましいことなのか。何をもたらすのか。今日の経済成長をめぐる議論は、このあたりを考えているように思われる。

 それは、経済成長を出発点とした議論である。人々の生活は経済の変化によって大きな影響を受ける以上、当然ともいえる。

 しかし、経済成長を社会変化の原因と見なすだけで良いのだろうか。基本的で素朴な議論になるが、ここではあえて、経済成長そのものが人々の行動の結果だという観点を改めて強調しておきたい。

 近代以降の経済成長に大きな役割を果たした要因の一つは、技術革新だとされる。技術革新の背景には、現場での創意工夫から研究室での理論構築や実験まで、無数の人々が自由な着想を自分の仕事に生かそうとした行動があった。経済成長はそれらが集積した結果だった。

 このような行動を許容し、促したのは、社会が全体として持ち始めた自由であった。身分による縛り、迷信などを含む古い価値観の制約などから解放され、人々が自由になったことが近代社会の大きな特徴だが、それはやがて、自由になった人々が何を追求するのかも自由だ、という発想にもつながっていった。幸福追求権である。

 その中で、積極的かつ自由に経済活動にいそしみ、豊かになろうとすることも、幸福追求の一環として理解されるようになった。現在では、経済的自由は思想や言論といった精神的自由より価値が低いと一般に考えられているが、元来は幸福追求と経済的自由は密接に結びついていた。

 経済的自由の相対的価値が低下したのは、環境汚染や長時間の低賃金労働など、資本主義の発展とともに自由な経済活動が多数の人に無視できない害悪をもたらしたからである。環境や労働についての規制を進めた今日でも、経済活動が社会に負の影響を与える例は後を絶たない。

 したがって、自由な経済活動や、その結果としての経済成長を手放しで礼賛できないことも理解できる。経済成長への否定的あるいは懐疑的な見方も、自由な経済活動が持つ負の側面を重視している場合が多いように思われる。

 しかし、経済活動が人間の自由の表れだという基本的事実は消せない。経済活動に強い制約を加えることと、個々人が自由に生き方を選択できる社会であり続けることは両立可能だろうか。負の影響ゆえに経済成長に懐疑的な見方をする場合にも、このことは認識しておく必要があろう。

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 71年生まれ。専門は比較政治論、アメリカ政治論。著書に「〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治」「首相政治の制度分析」など。 
    −−「未来への発想委員会:経済成長を問い直す:上」、『朝日新聞』2015年01月23日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11565222.html





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