日記:歴史は誰が書くのか

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歴史は誰が書くのか
鶴見 歴史記述というと、ポッパーの『歴史主義の貧困』(中央公論社)という本があるでしょう。論理実証主義の立場で書かれたものだけれども、そのなかで、彼は、歴史科学というものはない、と言うんです。経済学というものはあるし、社会学というものもある。歴史にもし法則があるとすれば、それは社会科学に還元されるものであって、それでいいんだ。歴史特有のものはないと言っているんです。ある種類の科学方法論に立てば、その結果としてそういう定義は出てくる。
 そうすると、歴史というのはしろうとにゆだねられますね。専門の経済学者ではない、専門の社会学者ではないしろうとの立場が歴史のなかに残るというところに歴史のおもしろさが出てきて、むしろしろうとの立場からさまざまな学を使いこなすときに、それはリースマンが言っているような意味での本来の知識人がそこに出てくるでしょう。そういう本来の知識人が書くものとしての歴史、それから本来の知識人などというものもとっぱらってしまって、一人の大衆が書きうる歴史というものがある。そういう領域が出てきた。それが歴史に人間性を回復していく、その大道になっていく。
 だからポッパーの言うことは全部受け入れてしまって、その上で残るものがむしろ歴史の大道であるというふうにわたしは感じるんです。歴史社会学とか歴史心理学とかを全部専門の学者にやってもらったらいいではないか。そうして、それは典型理論とか平均値の理論で精密なものを出していく。それはそれで参考になることもあるでしょう。歴史は本来人間そのものがおこなう、しろうとがおこなう。そしてしろうとの立場でさまざまの学に教養のある人が書く、そういうものだと思うのです。
奈良本 ぼくは、それはたいへんおもしろいと思う。
鶴見 そう考えてみると、偉大な歴史家はだいたいそんなふうでしょう。司馬遷にしてもギボンにしても経済学者でもなし、社会学者でもなし、心理学者でもない。いろんな社会科学が発達したあとの、歴史家としての大きな仕事をなしえた人というのは、だいたいその系統が多いですね。彼らは専門の学問の本を読んでいるんだけれども、それを隠しています。その歴史記述をするときには、しろうとのような単純な線を引く。そのおもしろさですね。
    −−「歴史をみつめる視点 奈良本辰也」、『鶴見俊輔座談 近代とは何だろうか』晶文社、1996年、49−51頁。

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