覚え書:「政治断簡 幕末に見る立憲主義の芽生え 編集委員・国分高史」、『朝日新聞』2017年02月12日(日)付。

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政治断簡 幕末に見る立憲主義の芽生え 編集委員・国分高史
2017年2月12日

 今年は日本の近現代史にとって、ふたつの節目の年にあたる。ひとつは日本国憲法施行70年、そして、徳川幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還150年だ。

 1947年の日本国憲法の施行によって、私たちは主権在民法の下の平等、個人の尊重といった価値を手にした。ところが、さらに80年さかのぼる1867(慶応3)年の大政奉還を目前に、いまの憲法に通じる立憲主義的な国家構想を幕府や有力諸侯に建白した人物がいた。

 赤松小三郎。信州・上田藩の下級武士の出身で勝海舟に師事。長崎の海軍伝習所で兵学や航海術を学んだ。京都の薩摩藩邸で東郷平八郎らに英国式兵学を教えたが、建白書を出した直後に薩摩藩士によって暗殺された。

 一般には無名の赤松の国家構想について、赤松と同郷の拓殖大准教授・関良基さんが近著「赤松小三郎ともう一つの明治維新」(作品社)で詳しく紹介している。

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 赤松の七カ条の建白の核心は、国会にあたる「議政局」の設立だ。公家や諸侯らからなる上局と、普通選挙による下局の「二院制」をとる。議政局は「総(すべ)ての国事を決議」し、天皇や幕府などの行政府には拒否権も解散権もない。まさに国権の最高機関だ。

 さらに赤松の建白が特筆に値するのは、法の下の平等や個人の尊重、職業選択の自由、差別なき納税の義務をうたっていることだ。

 議会制度の導入を求めた幕末の国家構想はほかにもあるし、とりわけ坂本龍馬の「船中八策」と呼ばれる構想は有名だ。だが、赤松の建白は龍馬より一足早いうえに、八策にはない基本的人権が強調されている。関さんは「日本最初の民主的な憲法構想といってよい」という。

 別の専門家はどう評価しているのか。佛教大教授の青山忠正さん(明治維新史)は、「赤松が唱えた議会制度は優れていた」と認め、土佐藩による大政奉還の建白に影響を与えた可能性も指摘する。

 もっとも、赤松ひとりが先進的だったわけではないというのが青山さんの見方だ。当時はすでに西欧の政治制度や人権の概念は日本に入っていたし、特に1866年に刊行された福沢諭吉の「西洋事情」が知識人に与えた影響は大きかった。

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 実は関さんは歴史学者でも憲法学者でもない、森林政策の専門家だ。群馬県の八ツ場ダム建設問題に関わった際に抱いた官僚主導政治への疑問が、議会主導を唱えた郷土の偉人の研究に向かわせた。

 本を書き終え改めて感じるのは、権力によって立憲主義がないがしろにされる中での憲法改正論議の危うさだ

 「個人を尊重する立憲主義は幕末の日本に芽生え、盛んに議論された。その後、天皇主権の時代が続くが、国家が国民をしばるような自民党憲法改正草案の発想は、日本の伝統では決してない」と関さんは話す。

 これからの国会での憲法論争を見る際に、忘れてはならない視点だろう。
    −−「政治断簡 幕末に見る立憲主義の芽生え 編集委員・国分高史」、『朝日新聞』2017年02月12日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12793384.html





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