覚え書:「ミゲルは潜伏キリシタン? 長崎の「墓」に聖具」、『朝日新聞』2017年11月16日(木)付。


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ミゲルは潜伏キリシタン? 長崎の「墓」に聖具
2017年11月16日

写真・図版
天正遣欧少年使節顕彰之像」の千々石ミゲル長崎県大村市

 天正遣欧使節のひとり、千々石(ちぢわ)ミゲルは、ローマに旅立った少年4人の中で唯一の棄教者として、「背教者」などと烙印(らくいん)を押されてきた。だが、そんな彼のイメージが覆るかもしれない。この夏、長崎県諫早市のミゲルとその妻の墓とされる遺構で発掘が行われ、信仰が続いていたとみられる証しが見つかったのだ。

 使節は16世紀後半、大友宗麟ら九州のキリシタン大名がヨーロッパに送り込んだ少年たちだ。有馬晴信大村純忠の縁戚だったミゲルは伊東マンショ原マルチノ中浦ジュリアンとともに欧州の地を踏み、熱烈な歓迎のもとでローマ法王やスペイン国王に謁見(えっけん)する栄誉を得た。

 旅立ちから8年後の1590年に帰国したとき、キリシタンを取り巻く状況は一変しつつあった。迫害のなか、4人のうちある者はマカオで死去し、ある者は国内で殉教した。ミゲルは信仰を捨てて清左衛門と名乗り、4人の息子に恵まれたとされる。ただ、居を転々とし、幸せな晩年とは言えなかったようだ。

 そんな彼の生涯は謎に包まれている。ミゲルがイエズス会を脱会したのは1601年前後という。キリスト教世界の繁栄を目にしたにもかかわらず、なぜ棄教したのか。そもそも本当に信仰を捨てたのか。

 諫早市多良見町の静かな山間に、ミゲル夫婦の墓とみられる場所がある。古い石碑には禁教の往時を反映してミゲルの名はないが、仏式で男女の名があり、裏に玄蕃という名が刻まれている。ミゲルの四男、千々石玄蕃が建てたらしい。

 8月下旬から9月にかけ、ミゲルの血を引く浅田昌彦さん(川崎市)や地元の歴史愛好家らが専門家の協力を得ながら発掘調査を実施。石碑の下の礫(れき)やふた石を取り除くと長持ち状の埋葬施設らしき穴があり、直径2〜5ミリの5色のビーズが59個、半円形のガラス板などが見つかった。ビーズは容器の装飾や鎖の玉、ガラス板は聖遺物入れの一部ではないかとの見方が出ており、いずれにしても「キリシタンの聖具なのは間違いない」(発掘調査実行委員会)。墓穴の構造は上級武士のものという。

 人間の骨や歯も見つかった。専門家の分析によると、25〜45歳の女性らしい。もしミゲルの妻なら、隣接してミゲルの墓がある可能性が高いという。

 調査を統括する石造物研究者の大石一久・大浦天主堂キリシタン博物館副館長は、ミゲルは晩年まで信仰を保っていたと考える。

 ミゲルがイエズス会を脱会した時期は、修道会同士の対立や仏教寺院の徹底破壊など様々な問題が噴出していた。「当時のイエズス会は日本という異文化に適応しようとしなかった面もある。ミゲルはそんな姿勢に異を唱えたのではなかったか。だから、あくまで脱会であって、信仰を捨てたわけではなかったと思う」

 ■子孫ら、歴史の闇に光

 日本キリスト教史の黎明(れいめい)期、禁教や迫害で様々な資料が葬られた。当時の実態を知るにはイエズス会側の記録からのアプローチに偏らざるを得ない。それだけに、発掘調査の成果は事実解明に向けた糸口となる可能性を秘め、「文献史料を補う例になる」と五野井(ごのい)隆史・東京大名誉教授(キリシタン史)は語る。

 調査は道半ばだ。出土品がミゲルゆかりの遺品かどうかは、まだ断定できない。しかし、行政やアカデミズムではなく、後世の縁者として発掘に私費を投じてきた浅田さんや地元ボランティアの熱意が歴史の深い闇に光をあて、ミゲルの「復権」と通説の再検討を促しつつあるのは確かだ。

 来夏はユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が審査される。もし、ミゲルが生涯信仰を胸に秘めていたとしたら、彼はその先駆けだったといえるかもしれない。

 (編集委員中村俊介
    −−「ミゲルは潜伏キリシタン? 長崎の「墓」に聖具」、『朝日新聞』2017年11月16日(木)付。

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