日記:心情倫理と責任倫理


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たしかに政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。しかし信条倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶべきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に−−諸君はこの興奮を「不毛」な興奮ではないと信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない−−突然、信条倫理家が排出して「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。ーーまずもって私はこの心情倫理の背景にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の印象といえば、まず相手の十中八、九までは、自分の負っている責任を本当に感ぜすロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ、と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ感動しない。これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間−−老若を問わない−−がある地点まで来て、「私としてこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッターの言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。
    −−マックス・ヴェーバ−(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波文庫、1980年、102−103頁。

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