覚え書:「日曜に想う 国力より「自分」を選んだ国 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。


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日曜に想う 国力より「自分」を選んだ国 編集委員・大野博人
2017年11月19日


「忍び足」 絵・皆川明

 「日本は大国であることをあきらめてしまった」

 フランスの歴史学者、人類学者のエマニュエル・トッド氏(66)が新著「私たちはいったいどこにいるのか 人類史の素描」(邦訳は来年、文芸春秋社から刊行予定)の中にそう書いていた。「日本は、人口動態の問題を解決するのに大規模な移民に頼ることを拒んでいる。そう考えざるをえない。その条件下、人口は2010年以降、減っている」

 先日、パリで話を聞いた。

 「労働力不足を補う多少の取り組みは始めているけれど、日本は明らかに人口減少を受け入れています。そして人口減少を受け入れる国というのは、もはや国力を追求しようとしない国です」

 それは何を意味するのでしょうか。

 「国力を維持するより、自分であり続けることを選んだのでしょう」

 話は近隣諸国の日本観にも触れた。

 「日本の軍事強国化だとか、右傾化だとかいう議論はバカげています。だって力を求める国なら、人口動態の問題についてさまざまな解決策を決めるはずです。人口動態の研究者である私からすると、そんな論ははじめから意味がない」

 たしかに、人口が減り、しかも数年でその半分が50歳以上になる国が、軍事的存在感を増せるとは考えにくい。

 「この20年間、日本の人たちと人口動態の議論を重ねてきました。でも気付いたのです。日本では人口動態は語るためのテーマであって、行動するためのテーマではないのだと」

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 この新著をトッド氏は「ライフワーク」とも呼ぶ。専門である家族人類学の視点から今日の世界の問題を読み解く。

 核心となるのは、家族の形態と民主主義はいずれも、一般に考えられているのとは逆に進んできたという指摘だ。

 私たちはふつう、古い大家族が崩壊して「核家族」化が進んだと思っている。けれども、「核家族」こそ、ホモ・サピエンスの最初の家族形態だった。それが進化し、複雑な支配関係をともなう封建的な家族制度などに変容していった。また民主主義も核家族と密接に関連して現れた政治システムだったが、社会が大きく複雑になっていったところでは、より権威主義的な体制などに移行していった。民主主義は識字率の向上などで近代になって再び広がったけれど、高等教育が発展した今日、「大衆層」とのつながりを失った「エリート層」が生まれ、それが民主主義をむしばみつつある――。

 その反動がトランプ現象や英国の欧州連合離脱の国民投票とみる。ただ民主主義とは「他者」を排除する「仲間」同士の連帯に基づいていた。だから、その回帰には排他性がつきまとうのだという。

 「私はトランプ氏も英国の排外的なグループもあまり好きではないけれど、あれは民主主義の後退ではなくて、その再登場の始まりなのです」

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 日本はその中の第16章でドイツとともに論じられている。

 両国とも人口減少と急速な高齢化という試練に直面する民主主義国で、人類学的には「直系家族」に分類される。親子関係の親のような権威を持つ者を軸とした上下の秩序を重んじる社会だ。

 「日本で自民党の一党支配が続くのは、民主主義も垂直的だからです」

 こうした社会は経済のグローバル化の基底にある個人主義に適応しにくい。なのに無理をしたツケが出生率の急激な低下という現象を招いた、という。

 この試練に、ドイツは「外向き」で大量の移民や難民受け入れに走る。逆に日本は「内向き」だ。そのどちらかを評価しているわけではない。ドイツにも冷徹な視線を注ぐ。

 トッド氏は人類学的な要素がすべてを決定すると言っているのではない。ただ、経済のグローバル化の底にある「人々の行動原理はどこでも同じ」という安易な普遍主義への傾斜を批判する。

 変われないわけではないけれど、簡単には変われない自分。膨大なデータに基づく緻密(ちみつ)な分析に、その課題の重さを思い知らされる読書と対話だった。
    −−「日曜に想う 国力より「自分」を選んだ国 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。

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(日曜に想う)国力より「自分」を選んだ国 編集委員・大野博人:朝日新聞デジタル