日記:西田幾多郎とティリッヒ

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 輓近に至って、ヨーロッパ文明の前途を憂える人は、往々中世への復帰を説く(Dawsonの如く)。しかし大まかに歴史は繰返すといわれるが、その実は歴史は繰返すものではない、歴史は一歩一歩に新たなる創造である。近世文化は、歴史的必然によって、中世から進展し来ったのである。中世文化の立場に還ることの不可能なるのみならず、またそれは近世文化を救う所以のものでもない。今や新たなる文化の方向が求められなければならない、新なる人間が生れなければならない。中世的世界の自覚的中心となるキリスト教は、対照的に超越的宗教であった。君主的神の宗教であった。而してそれは俗権と結合した。ペテロの後継者は、またシーザーの後継者ともなった。かかる宗教は宗教自身が宗教を否定してゆくことでなければならない。シーザーのものは、何処までもシーザーに返さなければならない。宗教はシーザーの剣の背後にあるのではない。かかる世界は作られたものとして、作るものへと、歴史的必然に移り行かねばならない。プロテスタントは自然を決断の場所としたとティリッヒはいう。我々は何処までもこの方向を進んで行かなければならない、即ち自己否定において神を見る方向へ進んで行かなければならない。しかし単に内在的方向へ行くことは、世界が自己自身を失い、人間が人間自身を否定することである。我々は何処までも内へ超越して行かなければならない。内在的超越こそ新しい文化への途であるのである。
 かかる意味において、私はイヴァン・カラマーゾフの劇詩に興味を有するものである。「主なる神よ、我らに姿を現し給え」と哀願する人類への同情に動かされて、キリストがまた人間の世界へ降って来た。場所はスペインのセヴィルヤであり、時は十五世紀時代、神の栄光のために毎日人を焚殺する、恐ろしい審問時代であった。大審問官の僧正が、キリストがまた奇蹟をなすのを見て、忽ち顔を暗もらせ、護衛に命じキリストを捕えて牢屋へ入れた。而して彼はキリストを責めていう。お前は何のために出て来たか。お前はもはや何一ついうことがないはずだ。人民の自由ということは、千五百年前からお前に何より大切なものであった。「我は汝らを自由にせんと欲す」といったではないか。今おまえは彼らの自由な姿を見た。我々がお前の名によってこの事業を完成したのだ。人民は今何時にも増して、彼らが自由になったと信じている。しかしその自由を、彼らが進んで我々に捧げてくれた、おとなしく我々の足もとに置いてくれたのだ。これを成し遂げたのは、我々だ、お前の望んだのは、こんな事ではあるまい、こんな自由ではあるまいと。つまり審問官らが自由を征服して人民を幸福してやったというのである。人間には、自由ほど、堪えがたいものはないのだ。人はパンのみにて生くるものにあらずといって、キリストは、人間を幸福になし得る唯一の方法を斥けた。しかし幸にもキリストがこの世を去る時、その仕事をローマ法王に引き渡した。今になってその権利を奪う訳にはゆくまい。「何故今になって、我々のじゃまをしに来たか、明日はお前を烙き殺してくれる」というのだ。これに対し、キリストは終始一言もいわない、あたかも影の如くである。その翌日釈放せられる時、無言のまま突然老審問官に近づいて接吻した。老人はぎくりとなった。終始影の如くにして無言なるキリストは、私のいう所の内在的超越のキリストであろう。無論、キリスト教徒は、否、ドストエフスキー自身も、斯くいわないであろう。これは私一流の解釈である。しかし新しいキリスト教的世界は、内在的超越のキリストによって開かれるかもしれない。中世的なものに返ると考えるのは時代錯誤である。自然法爾的に、我々は神なき所に真の神を見るのである。今日の世界史的立場に立って、仏教から新らしき時代へ貢献すべきものがないのであろうか。但、従来の如き因襲的仏教にては、過去の遺物たるに過ぎない。普遍的宗教といっても、歴史的に形成せられた既成宗教であるかぎり、それを形成した民族の時と場所とによって、それぞれの特殊性を有っていなければならない。いずれも宗教としての本質を具しながらも、長所と短所とのあることはやむをえない。唯、私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考えるものである。

 私はベルジャーエフの「歴史の意味」に対して大体の傾向において同意を表するものであるが、彼の哲学はベーメ的な神秘主義を出ない。新しい時代は、何よりも科学的でなければならない。ティリッヒの『カイロスとロゴス』も、私の認識論に通ずるものがあるが、その論理が明でない。これらの新しい傾向は、今や何処までも論理的に基礎附けられなければならない。
    −−西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」、上田閑照編『西田幾多郎哲学論集III 自覚について他四篇』岩波文庫、1989年、393−396頁。

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