覚え書:「耕論 天皇と政治 御厨貴さん、河西秀哉さん」、『朝日新聞』2017年12月02日(土)付。


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耕論 天皇と政治 御厨貴さん、河西秀哉さん
2017年12月2日

 天皇陛下が2019年4月末に退位することが固まった。「おことば」から1年半近く続いてきたプロセスから見えてきたものは何だろうか。天皇のお気持ちと首相官邸の動きをどう考えればいいのか、そしてそこから浮き彫りになった天皇と政治の関係とは。

天皇陛下退位日、19年4月30日決定 翌日から新元号
 ■退位、官邸と宮内庁のバトル 御厨貴さん(「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」元座長代理)

 天皇の退位問題を巡り、官邸に設置された有識者会議で、私は座長代理を務めました。その立場から見えたのは、今回のプロセスを通じて、官邸と宮内庁が一貫して熾烈(しれつ)なたたかいを続けていた、ということでした。それは極めて政治的なバトルでした。

 一連の動きは、昨年7月に突然NHKが「ご意向」を報道したことに端を発していますが、私が最初に感じたのは、この情報発信は象徴天皇制の「則(のり)を超えたな」ということでした。宮内庁参与など、天皇周辺の人々が政治の側にしかるべきチャンネルで働きかけ、政治が動きだすのが本来の姿だからです。

 最初の「ご意向」は、宮内庁関係者がNHKに報道させようとしたのだろうと私はみています。

 官邸側からは、退位を認めるけれども、退位に反対する一部保守派への配慮もあってか、やすやすとそこへ持っていくわけにはいかないという思いを強く感じました。私自身、座長代理として、官邸と、天皇のお住まいである「千代田のお城」とのせめぎ合いの一端を垣間見ました。早い結論を求めて業を煮やす宮内庁側が「第二の天皇メッセージ」を準備しているといった情報も漏れ聞こえました。

 いつ平成を終わらせ、次の天皇が即位するのかも、両者のさや当てになっていたと私は思います。平成が30年で終わり、元旦から新しい年号というのが分かりやすく自然でしょう。しかし、宮内庁が4月1日だといい、それを官邸側が5月1日に再びひっくり返したように見えます。改元の日はメーデーですよ。驚きました。

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 メディアが大きな役割を果たしたことも今回の特徴でした。

 私自身、昨年7月に朝日新聞の紙面で、「有識者会議のような場が必要になる」と述べたのですが、図らずもその3カ月後に有識者会議に入ることになりました。

 8月にはテレビを通じ、天皇から、「ご高齢」という人道的な問題として、直接国民にメッセージが投げかけられた。ご意向がメディアを通じて一気に広がり、事は急を要することになりました。国は国民の理解を背景に、一瀉千里(いっしゃせんり)に結論を出す必要が生じました。

 実は、メディアと天皇制の関係は1959(昭和34)年に、いまの天皇が皇太子で結婚した時にさかのぼります。結婚の模様がお茶の間に映像で届くテレビ天皇制、かつて政治学者の松下圭一が呼んだ大衆天皇制です。

 メディアの影響力は、有識者会議の検討プロセスにも反映されていました。私たち委員はヒアリング対象者20人の選定には全く関わっていませんが、私は思想的歴史的に研究した碩学(せきがく)を中心に話を聞くのかと思っていました。しかし官邸は、5大新聞などへの登場数も基準に人選を進めたそうです。

 そして有識者会議のヒアリングの度に新聞・テレビが、識者の発言を大々的に取り上げました。結論のとりまとめでも、当初は官邸主導だったのが、途中で国会の正副議長が乗り出してくる、といった場面にメディアは注目しました。しかし、官邸と宮内庁の政治バトルという肝心な部分に、メディアは十分な焦点をあてていなかったような気がしてなりません。

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 近代日本の政治制度が想定していなかった天皇生前退位が1日の皇室会議で実現に近づき、一つの大きな歴史的節目を迎えたことは間違いないでしょう。この間の意思決定、政治過程は戦後政治の中でも異例なことの連続でした。

 今回の退位をめぐる動きは、封印されていた箱を開け、近代の政治体制の中で、これまで考えてこなかった論点を考えられるようになりました。天皇制や皇室について自由に議論できる空気が醸成されたという点は評価できると思います。女性宮家の問題など、本当はすぐに検討を開始すべき問題は山積しています。

 (聞き手 編集委員・村山正司、池田伸壹)

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 みくりやたかし 51年生まれ。東京大学名誉教授。政治学者。天皇、皇室と近代政治の関係についても研究。著書「天皇と政治――近代日本のダイナミズム」など。

 ■能動的象徴、利用される危険 河西秀哉さん(神戸女学院大学准教授)

 今回の退位は、憲法で国政に関する権能を有しないと定められている象徴天皇制下で、初めて天皇の発言で政治が動いたという点で大きな問題をはらんでいます。しかし、昨年8月の「おことば」から1年半、問題の大きさはあまり認識されないままでした。

 メディアと国民の側に、天皇と政治がかかわることへの抵抗感が減ってきていることを反映しているのだと思います。今上天皇の人柄や振る舞いは国民から絶大な支持を得ているので、「今の陛下がすることなら間違いはない」という感覚があるのかもしれません。

 今上天皇は、戦後50年の1995年あたりから、政治的にも踏み込んだ発言をするようになりました。象徴天皇制の本来のあり方からの逸脱というより、時代の変化に応じた適応だと思います。平成は停滞の時代で、格差が広がり、国民が分断されていきました。その中で天皇は被災地や福祉の現場を訪れ、取り残されつつある人々に目を向けてきた。社会の分断を前にして、国民統合の象徴として能動的に動こうとしたからこそ、行動や発言がある種の政治性を帯びざるをえなかった。それが、昨年8月の「おことば」にまでつながっているように思います。

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 驚いたのは、安倍首相が11月21日に内奏を行い、皇室会議の日程を天皇に報告した模様だと各メディアが報じたことです。首相や閣僚による天皇への内奏が大々的に報道されるのは極めて異例です。

 内奏は、戦後の象徴天皇制のもとでずっと行われてきました。当初は、あまり問題視されることはなかったのですが、73年、防衛庁長官だった増原恵吉が、内奏時の昭和天皇の発言を記者に話してしまった。天皇の政治利用につながると批判され、増原は辞任します。それ以来、内奏に触れることは一種のタブーになります。

 変わったのは、95年の阪神淡路大震災が契機でした。天皇の被災地訪問が国民に受け入れられた中で、政治家が天皇に報告するのもその一環と見なされたのでしょう。2013年には、安倍首相が天皇に内奏する写真が初めて公開されましたが、メディアも国民も当然のように受け止めました。

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 政治と天皇の距離が縮まるなかで、天皇が能動的な象徴たらんとすることを、政治の側が逆手にとるリスクも出てきています。今は、天皇が進んで被災地を訪れていますが、政治がそれを利用しようという気になれば、結果的に被災者の政治への不満を天皇が和らげ、政治の不作為を覆い隠してしまうことにもなりかねません。

 今回、安倍政権は、象徴天皇のあり方や皇位継承をどうするかなどの本質的な議論は避けたまま、退位を政治日程に組み込みました。昨年8月の「おことば」にこめられた今上天皇の思いは、半分は受け止められ、半分は政権に受け流された感じがします。国事行為の縮小や摂政の設置を否定するなど政治性を帯びた「おことば」は、結局、政権によって政治的に処理されたのかもしれません。

 菅官房長官が会見で述べたように、4月29日の昭和の日、退位、即位と続けることで、「国の営みを振り返り、決意を新たにする」というのであれば、保守層の支持を得るために、天皇制という装置を利用しているように見えます。

 ある意味で、われわれ国民の不作為も問われています。戦後の70年間、象徴天皇とは何なのか、その役割は何なのかを真剣に考えてこなかった。その結果、天皇の政治的行為をなし崩し的に認めるようになってしまった。

 今後は、2019年4月の退位を、国民がどう受け止めるかが課題になります。ただ盛り上がるのではなく、政治の意図をきちんと見抜かないと、天皇と政治のかかわりがさらに進む恐れがある。象徴天皇のあり方を国民が考える機会にすべきだと思います。

 (聞き手 編集委員・尾沢智史)

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 かわにしひでや 77年生まれ。専門は日本近現代史。著書に「『象徴天皇』の戦後史」「明仁天皇と戦後日本」、編著に「平成の天皇制とは何か」など。
    −−「耕論 天皇と政治 御厨貴さん、河西秀哉さん」、『朝日新聞』2017年12月02日(土)付。

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(耕論)天皇と政治 御厨貴さん、河西秀哉さん:朝日新聞デジタル