日記:「目的でなく手段対象に」でいいのだろうか。


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目的でなく手段対象に
 近代経済学の置かれている立場をかえりみて、新しい方向を模索しようとするとき、わたくしは一つのエピソードを想起せざるを得ない。一九六六年、アメリカの上院外交委員会によって開かれた公聴会のことである。アメリカの対外援助政策、とくにベトナム問題について、フルブライト委員長から批判的な質問がなされたのに対して、当時、国防長官であったマクナマラ氏がつぎのように証言したのである。マクナマラ氏は、まず、ベトナム戦争で投下された爆弾の量、枯れ葉作戦によって廃墟化された土地の面積、死傷した共産側の人数など、豊富な統計データを掲げて、ベトナム戦争の経過を説明した。そして、これだけ大規模な戦争を遂行しながら、増税を行うこともなく、インフレーションもおこさないできた。それは、国防省のマネジメントの改革などを通じて、もっとも効率的な、経済的な手段によってベトナム戦争を行ってきたからである。そのような功績をはたした自分がここで批判され、非難されるのは全くの心外である、という意味の証言である。わたくしは、いまなおこのときのマクナマラ氏の自信にみちた姿をまざまざと思いだす。と同時に、マクナマラ証言によって、ことばに言いつくせない衝撃を受けたことをおぼえている。マクナマラ氏は経済学者ではないが、その主張するところはまさに近代経済学の基本的な考え方と通ずるものがあったからである。
 近代経済学の方法を客観主義の立場から整理しようとしたのは、三二年に公刊されたライオネル・ロビンズの『経済学の本質と意義』である。ロビンズの立場を一言にして言えば、科学としての経済学は、与えられた目的を達成するために、さまざまな希少資源をどのように配分し、どのような手段を用いたらよいか、という問題を考察の対象とする。これに反して、どのような目的を選択すべきであるか、という問題は、もはや経済学の領域ではなく、倫理学に属する問題であると考える。したがって、経済学者は、目的の正当性について語る資格はない。どのようなものであれ、与えられた目的をもっとも効率的に、経済的に達成するには、どのような方法をとったらよいか、ということを追求しさえすればよいことになる。
 ロビンズの主張は、もともとピグーの『厚生経済学』に対する批判として生まれたものである。ピグーは単に効率性だけでなく、公正、平等性についても経済学者は考慮しなければならないと考え、国民経済学的な厚生は、国民所得額だけでなく、その分配にも依存するとした。とくに、彼の第二命題すなわち、貧しい人々に帰属する分配分が大きければ大きいほど、経済厚生は高まると考えたのである。
 しかし、ピグーの理論は重要な前提の下ではじめて成立するものであった。それは効用の個人間の比較可能性である。ある個人がさまざまな消費活動を通じてどれだけ実質的満足感をうることができるか、つまり効用を尺度化することができるだけではない。異なる個人間についても、ある共通の尺度によって、それぞれの享受する効用をはかり、比較することができるというのである。そして、このような個々人の効用を国民経済の全構成員について加え合わせたものによって社会的経済厚生があらわされるとするのである。
    −−宇沢弘文『経済と人間の旅』日経ビジネス人文庫、2017年、136−138頁。

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