覚え書:「欧州季評 二者択一の不条理 EU離脱が招く和平の亀裂 ブレイディみかこ」、『朝日新聞』2017年12月09日(土)付。


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欧州季評 二者択一の不条理 EU離脱が招く和平の亀裂 ブレイディみかこ
2017年12月9日

 地下鉄の駅での人身事故や発砲事件がニュースで報じられるたびに、「またテロか」と反射的に思ってしまう。ふと、20年前に英国に来た頃のことを思い出す。誰かの忘れ物が不審物と見なされて物々しく駅が封鎖され、電車が止まるたびに、この国ではまともに通勤すらできないのかと思ったものだった。もうあのテロの時代は過去の話になったと思っていたが、既視感ある日常が戻ってきた。

 1966年から99年まで、英国とアイルランドでは、テロ事件のために3600人以上が亡くなっている。ダブリン、バーミンガム、シャンキル、モナハン、私が住むブライトンでも爆破事件があった。カトリック系住民の多いアイルランド南部は22年に独立し、49年には英国連邦からも離脱したが、プロテスタント系住民の多い北部は英国に留(とど)まった。北アイルランドでは、独立派のカトリック系と英残留派のプロテスタント系の紛争が絶えず、各地でテロが横行した。

 だが、和平交渉が始まり、アイルランド、英国、欧州、米国の政治家たちがプロセスの調停を行った。この間もテロはやまなかったが、沈静化していった。そしてついに98年、英国政府とアイルランド政府の間で結ばれたベルファスト合意は、長い年月をかけた努力と犠牲の果てに締結された和平協定だった。合意後、両政府がともにEU加盟国であることを背景に、国境を緩やかにし、双方の交流が進んできた。

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 だが、EU離脱を決めた国民投票から1年半が過ぎ、この和平協定がEU離脱交渉の障害になると騒ぎになった。英国が単一市場からも関税同盟からも抜ける形でEUを離脱し、北アイルランドアイルランドの間に鉄条網や検問所を設置する国境(ハードボーダー)を再び設けることは、和平協定の破棄だとアイルランド政府が主張したからだ。

 EU離脱を問う国民投票の前、北アイルランドでは、これは切実な問題として語られていた(北アイルランドでは56%の人々が残留に票を投じた)。だがイングランドでは、かつて和平協定に向けての交渉に関わったメージャー元首相とブレア元首相がわずかに言及したほかは、この問題は話題にもされなかった。離脱と残留を訴えて対立する人々の喧騒(けんそう)の中で、北アイルランドの人々の声はかき消されてしまったのだ。

 現地に住む人々にとり、これは日々の暮らしの問題だ。ベルファスト合意締結後の20年間、一度は国境とテロで分断されたコミュニティーが一つになっていたからだ。和平の結果、分断されていた親族や教区、ビジネス界が再び統合された。平和は多くの人命も救った。北アイルランドのデリーに、アイルランド政府が出資して最先端技術を誇る心臓病と癌(がん)の治療センターができた。ここではアイルランド北西部のドニゴール州の人々も治療を受けることができる。北アイルランドで重い病にかかった子どもたちも、ダブリンで治療を受けられるようになった。北アイルランドは、英国領土でありながら、アイルランドの一部とも見なされていた。「あれか」「これか」の二者択一ではなく、「どちらでもある」という緩やかなアイデンティティーを持つことを許されていたのである。

 ところが、EU離脱で、北アイルランドが英国領土という一つのアイデンティティーしか持てなくなったらどうなるだろう。北アイルランド内外にテロリストのグループはまだ存在している。再び対立感情が復活し、テロリストを援助する人々が出て来ないと誰に言い切れるだろう。

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 英国政府とアイルランド政府、そしてEUは水面下で北アイルランド問題をめぐる交渉を続けてきた。だが、メイ政権はあまり本気で対策を講じていなかったようだ。ガーディアン紙によれば、8月の政策方針書には、「テクノロジーを用いて『不可視の国境』をつくる」と書かれていたそうで、これはEUから「魔術的な思考」として一笑に付されている。

 メイ首相は、単一市場と関税同盟から抜けるハードブレグジット(強硬離脱)を志向しつつ、北アイルランドアイルランドの間にハードボーダーを設置しないと言い続けてきたが、これは実質上、北アイルランドだけはソフトブレグジットを行うということだ。この地域だけを特別扱いするということは、北アイルランドは英国の一部ではないと言っているも同然だ。それは、長いあいだ国家や共同体としてのアイデンティティーの問題で苦しんできた地域の人々に、疎外感を与え、また対立の火種を残すかもしれない。何をどうやっても、もう丸くは収まらないのだ。

 そもそも、なぜ「あれか」「それか」の二者択一を迫られる必要性があったのか。英国でもあり、アイルランドでもあった北アイルランドのように、英国もまた、EU圏でもあり、英国でもあったのである。

 不必要な二者択一が生んだ亀裂が思わぬところにも広がっていく。「あれでもあり、それでもある」の緩やかなアイデンティティーで分断は乗り越えられることを、我々は20年前に知っていたはずなのに。

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 1965年生まれ。保育士・ライター。96年から英国在住。著書に「子どもたちの階級闘争」など。同書で新潮ドキュメント賞受賞。

 ◆憲法、科学などテーマごとの「季評」を随時掲載します。ブレイディさんの次回は来年3月の予定です。
    −−「欧州季評 二者択一の不条理 EU離脱が招く和平の亀裂 ブレイディみかこ」、『朝日新聞』2017年12月09日(土)付。

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