日記:『人間革命』における牧口常三郎の価値論
それはドイツの哲学者カント(一七二四−一八〇四)の流れをくむ真・善・美の価値体系を、根本から覆し、「真なるもの」すなわち「真理」は認識の対象であっても、決して価値ではないことを解明したもの。
新たに樹立した価値体系は、美・利・善。価値の最大・最高なるものを「大善」に置く。価値とは、人間の生命と対象との関係性にほかならぬと説き、価値の実体内容を示した。さらに、人間の生活の目的は、すべて価値の追求であり、創造である、と説明。
人が最高・最大の価値有る生活をするためには、人間の生命と対象との関係性が価値である以上、主体である自己の生命の力を最高に発揮しなければならない。すなわち大善生活こそ、まさしくそれに値する。それは絶対に人間生命を完全に解き明かした最高真正の宗教によらなければならない。
ここで、牧口の価値論は、日蓮大聖人の生命哲学と結びつかざるを得なくなり、価値論は、信仰の根本的な問題に帰結する。
もし誤った宗教を信仰したならば、その人の生活は、必然的に反価値を生む生活に陥ることになる。その場合、価値の創造は逆に反価値の創造となる。つまり不幸とは、反価値を創造する生活のことをいう。
したがって、価値論から入って大聖人の生命哲学に行きついた牧口は、その宗教活動では、座談会にも「大善生活実験証明座談会」と名付けた。
価値論は究極において日蓮大聖人の大御本尊を仰いだ。この世に実在する最大・最高の価値を追求して、結局、大御本尊にお目通りすることが、最高絶対の幸福と知った。価値論の哲学者として牧口は、最高・最大の価値の実体は、「御本尊」にほかならぬと悟った。
美・利・善の価値体系が人間の思惟しうる範囲の、最高極善の価値を理解せしめるものであることは、たしかである。しかし、大御本尊には、人間の思惟を遙かに超えた無量無辺、無限の仏力、法力があられる。南無妙法蓮華経は、価値論のいかんにかかわらず、厳然と実在する。しかるに、これを価値と言うとき、それは観念的な価値論の範疇に閉じこめられてしまう。
(要旨)池田大作『人間革命 第一巻』聖教文庫、2000年(初版1971年)、303−306頁。
覚え書:「書評:魚と日本人 濱田武士 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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魚と日本人 濱田武士 著
2016年12月18日
◆出会いを演出する職能者
[評者]冨岡一成=歴史ライター
奥さん、きょうはカツオもっていきなよ−ひと昔前まで、まちの商店街には必ず魚屋のダミ声が響いていた。おいしい魚も食べ方も教えてくれる。丸の魚をさっさとさばく手つきをまねして、自分でもおろしてみたものだ。まさに魚屋の店先から、日本固有の「魚食」が伝えられていたのである。
「魚食」を形づくるのは漁業・流通・小売の各段階にたずさわる水産人、著者が「魚職」と名づける職能者だ。漁師が命がけで獲(と)った魚介は、産地卸売市場の荷受と仲買人の手で消費地卸売市場(たとえば築地)に送られる。そこで荷受と仲卸とのセリや相対取引により価格決定され、小分けになって小売へ。そして最後に鮮魚店や板前の「腕前」にかかって我々の口に入る。
この「魚職」のつながりは長い年月のうちに定着したもので、一九九〇年代まで水産流通の中心となっていた。だが、経済のグローバル化、消費低迷や都市化などの国民生活の急変によって、水産業界は大きく様変わりする。大量流通・消費の時代に漁業はとり残され、市場流通は減少した。量販店の台頭がまちから魚屋を駆逐していく。「魚職」活躍の場は失われつつある。 その結果、総合スーパーは輸入水産物を中心に同じ魚ばかり並び、刺身盛合せなど加工品が目立つ、鮮魚売場とは名ばかりのものになってしまった。人と魚の出会いを演出できない売場となったことが魚離れの一因だという。
本書は「魚食」を支える「魚職」の魅力と現状をあきらかにするものだ。市場や漁港を丹念に回り、ときに漁船に乗り組む著者だからこそ、複雑な水産業を手に取るように教えてくれる。そして「人が人に敬意を払う」「自然からの恵みをうまく廻(まわ)し、活用する」ことが「魚食」復権を導くとしている本書の提言が切実に響いてくるのだ。 そうだ−スーパーの鮮魚売場担当者におすすめの魚をきいてみよう。あるいは売場の人だって伝えたいことを日々かかえているのかもしれない。
(岩波新書 ・ 886円)
<はまだ・たけし> 北海学園大教授。著書『漁業と震災』『日本漁業の真実』など。
◆もう1冊
矢野憲一著『魚の文化史』(講談社学術文庫)。魚食をはじめ、魚と寺社の行事や冠婚葬祭などとの関わりをまとめた日本人の生活誌。
−−「書評:魚と日本人 濱田武士 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2016121802000185.html
覚え書:「書評:直撃 本田圭佑 木崎伸也 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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直撃 本田圭佑 木崎伸也 著
2016年12月18日
◆スター選手の人間味
[評者]夏野剛=慶応大特別招聘(しょうへい)教授
つくづく不思議な本である。本田圭佑の単なる語録かと思えば、五年以上にわたり本田を追いかけた著者の分析、解釈がきっちり入った解説書でもある。また問わず語りではなく、著者との生の対話録でもある。さらに本田を追い続ける著者の紀行録にもなっている。一般読者には想像もつかないヨーロッパのプロサッカー選手の日常、彼らを取り巻く環境が丁寧に描かれている。
しかしなんと言っても、この本の良さは本田圭佑という人間のおもしろさを余すところなく描き出しているところだ。一見派手に見えるスター選手の地味な積み重ねの日常と、誰もが知っているビッグイベントの際に本田が何を思い、どう感じていたかを描き出す。
本田は「ビッグマウス」と言われ、能弁にメッセージを発していた。本書はそのビッグマウスが聞かれなくなった二〇一〇年の南アフリカW杯直後からの姿を追う。メディアの前で語らなくなった本田。この心境の変化を、追いかけられるものと追いかけるものの微妙な関係性で解き明かしていく。本田は時に著者に質問する。「オレはどういうプレイヤーになったらいいと思いますか?」。取材される側と取材する側のある種の共闘感。そこにスターの苦悩や本音が見え隠れする。ベールに包まれた本田の本質をあぶり出した興味深い本である。
(文芸春秋 ・ 1404円)
<きざき・しんや> 1975年生まれ。スポーツライター。
◆もう1冊
マルティ・パラルナウ著『ペップ・グアルディオラ』(羽中田昌(はちゅうだまさし)ほか訳・東邦出版)。密着取材で名将の真の姿に迫る。
−−「書評:直撃 本田圭佑 木崎伸也 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2016121802000183.html
覚え書:「書評:しんせかい 山下澄人 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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しんせかい 山下澄人 著
2016年12月18日
◆回想体の語りの淡さ
[評者]伊藤氏貴=文芸評論家
「ぼく」は有名な脚本家の主宰する演劇塾に入る。北国にあるその塾は授業料はとらないが、自分たちの住む建物を作り、近くの農家の手伝いをしなければならない…と聞けば、ラベンダーで有名な北海道のあの場所や脚本家のあの顔が自然に思い浮かぶだろう。しかも「ぼく」の名前はヤマシタスミト、著者は「山下澄人」、本の見返しの著者紹介には「富良野塾二期生」と明記されている。これで実話に依(よ)らないと考える方が難しい。
作中であえて伏せられている固有名詞を作品外の現実に探すのは不純とも言えようが、しかしこの作品はあえてそうした古い私小説的な読み方を誘う。自分探しをする芸術家の卵が主人公というのも古い物語だ。そしてだからこそ際立つのが、「ぼく」の内面を排除したその語り口である。故郷との別れも、塾内のごたごたも、「ぼく」の心にさざ波ほどの動揺しかもたらさない。全ては淡々と流れ去ってゆく。
実際はもっと悶々(もんもん)としていたに違いない。ときには感情を爆発させたこともあったに違いない。しかし回想体の語りはそうした起伏を一切喚起しない。作品の持ち味はこの淡さだが、「ぼく」がこれを手に入れるには長い時間が必要だったに違いない。事実かどうかよりも、そこに時間がかける靄(もや)をこそ楽しむという点で、私小説とは似て非なる新しい小説だ。
(新潮社 ・ 1728円)
<やました・すみと> 1966年生まれ。劇作家・俳優・小説家。著書『緑のさる』など。
◆もう1冊
岡田利規著『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮文庫)。演劇界の新鋭が書いた小説。大江賞を受賞。
−−「書評:しんせかい 山下澄人 著」、『東京新聞』2016年12月18日(日)付。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2016121802000182.html
覚え書:「耕論 命の値段 相良暁さん、土居丈朗さん、田村恵子さん」、『朝日新聞』2016年09月10日(土)付。
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耕論 命の値段 相良暁さん、土居丈朗さん、田村恵子さん
2016年9月10日
高額のがん治療薬をめぐり、薬剤費や医療費のあり方が議論されている。治せる病気は治したいけれど、負担には限りがある。治療や延命にかける費用の「適正」額は存在するのか。
ほぼ四半世紀かけ、世界初のがん免疫療法薬オプジーボを開発しました。当初、「夢の新薬」とお褒めの言葉をいただきましたが、薬価が高いため、薬剤費高騰の象徴のように非難され、非常に困惑しています。肺がんの患者に1年投与すると3500万円かかり、患者の半分5万人が使うと年間1兆7500億円、薬剤費全体10兆円の2割だ、というのです。実際は対象患者は限られ、当社の推計では今年度は1220億円です。
薬価は製薬会社が決めるのではありません。オプジーボのように類似薬がないと、研究開発や製造原価の総額に営業利益や流通経費を加え、それを想定患者数で割る総括原価方式で薬価が決まります。画期的な薬として加算も認められ営業利益は通常の6割増の27%で算定されました。
研究開発費は製薬会社の言い値ではという批判もありますが、計上できる項目は厳密なルールに基づいています。
オプジーボは最初に患者が470人と少ない皮膚がんで保険適用を申請し承認され、高めの薬価になりました。昨年末、患者が100倍以上いる肺がんでも承認されましたが、2年に1度の薬価改定に間に合わず、肺がんも高い薬価が適用されています。
先に肺がんで申請していれば、薬価は安くなったに違いありません。でも、製薬会社は薬効と安全性から保険承認の確率が高い疾患、他に薬がなくて患者さんが待っている疾患を優先します。オプジーボではそれが皮膚がんでした。世界の大手製薬会社が競合薬を準備する中、一日も早く承認が受けられる疾患に注力するのは当然です。
延命や生活の質を改善するのに、どこまで高価な薬が許されるか、という費用対効果の考えは理解できます。オプジーボを含む七つの薬で厚生労働省が検証を始めました。ただ何を評価して結果をどう使うのか、現在のところわかりません。先に導入した英国では、使うべき薬が使えない弊害も出ていると聞きます。
売上高が予想の1・5倍以上で年間1千億円を超えた薬に限り薬価を下げる特例拡大再算定制度も今年始まりました。高額薬を狙い撃ちにしたこれらの制度は経営の見通しを立てにくくさせ、研究開発へ負の影響も出かねません。薬価の決め方を根本的に考え直す時期かもしれません。
今後の創薬の目標は難しい病気ばかり。新薬開発は必ずしも成功するものではありません。業界には新薬成功の確率は3万分の1という統計もあり、開発費は上がり続けています。必要な患者さんに一日も早くよい薬を届けるのが製薬会社の使命でしたが、これからは「できる限り安く作る」も加わったと考え、それに見合った研究開発を模索する時代に入ったと思います。(聞き手・畑川剛毅)
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さがらぎょう 58年生まれ。大阪市立大卒。83年小野薬品工業に入り、経営統轄本部長などを経て2008年から現職。
■費用対効果、指標が必要 土居丈朗さん(慶応大学教授)
薬剤費を抑え、国民皆保険という優れた制度を維持するには、複数の手法を組み合わせる必要があるでしょう。
まず、高額薬剤の処方について、各医学会に対象とする患者を決める厳密なガイドラインを設けてもらう。医師は最善の医療を尽くすのが義務でコストは国が考えるべきだと主張しますが、そうした時代は過ぎ去りました。医学的に寿命が残り3年の人に10年延命できる薬を投与すべきか否か、高額薬が医療全体に与える影響も視野に入れたガイドラインが必要です。
医療界自ら抑制するのを期待するのは楽観的すぎるという意見は承知していますが、財政の制約を盾に全体枠を先に決めても失敗するだけです。2006年、「骨太の方針」で社会保障の自然増を2200億円に抑え「どれを削るか、当事者間で決めなさい」と打ち出し、反発が大きくて失敗しました。当事者にやる気がないとできません。
もう一つは、富裕層に保険適用以前に新薬を高額で処方する方式です。金持ちだけが使え、「命に値段をつけるのか」と批判されますが、皆保険制度を維持するには必要でしょう。例えば、治験が進み保険適用が見通せる直前の半年とか1年とか、製薬会社の言い値で処方し、富裕層に研究開発費の一部を負担してもらって、その後に算定される薬価を下げるのです。
多剤投与の問題も深刻です。内閣官房の医療介護情報専門調査会の分析では、国民健康保険で1カ月に外来で10種類以上の薬を処方された患者の薬剤費が薬剤費全体の4割、7種類以上だと6割を占めていた。6〜10種類以上を同時服用すれば副作用が生じる患者がかなり出るという研究があります。複数の薬局で別々に処方されるために健康被害を出しながら薬剤費が余分に出ているのが現状です。
総括原価方式を使う薬価算定で、製薬会社が失敗した薬の開発費も計上しているのではとの批判も絶えません。製薬会社は研究開発段階で減税の恩恵を受け、開発に成功すると、様々な名目で薬価に加算がつく。患者が「両取りでは」と不信感を抱かないよう、製薬会社はコストを詳細に公表する必要があります。
世界保健機関は、費用対効果の指標として、今より1人多く延命させるために増やしていい薬剤費の目安を示しています。その国の1人当たり国内総生産の3倍で、日本なら年間1200万円です。目安の数字には論議が必要でしょうが、今の医療は、赤字国債で未来にツケを回して維持しており、将来世代から「使いすぎ」と批判されてもおかしくありません。薬に限らず医療費の財源をどこまで負担できるか、費用対効果の指標を設けるなど、国民的議論が必要な時期に来ていると思います。(聞き手・畑川剛毅)
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どいたけろう 70年生まれ。専門は財政学。09年から現職。行政改革推進会議議員、財政制度等審議会委員などを務める。
■治療、生き方から考えて 田村恵子さん(京都大学大学院教授)
高価な薬との関連で医療費の問題に注目が集まる機会に、私は人々の目がより根本的なことに向くことを期待しています。それは、命について考えるということです。
なぜかというと、命について議論することがとても難しいからです。語るにはなにか清廉潔白でなければいけないように思われていますし、家族でご飯を食べながら語り合うこともまれですよね。
死が迫ってから考えるのでは、こわいだけです。子どものころから人は死ぬものだということを見聞きし、命について考えられるようにしておきたいものです。それができるよう、仕組みを作っていくことも必要だと思います。
誰しも老いて死ぬという当たり前のことが、医療の進歩とお金の力によって見えにくくなっています。このことも、命に目が向かない要因です。保険が利かない自由診療や最先端の老化防止にはかなりのお金がかかります。受けるのは個人の自由ですが、死や老化が避けられるのではという錯覚が広がってしまわないか、心配です。
私は長いことホスピスで看護師を務め、今は大学病院でも働いています。がん治療を終え、地域に戻る患者さんが増えています。病院でできることには限界があるので、1年前からがん体験者が交流できる場所を、町屋を借りて開いています。生活に密着した形であれば、命について考えやすいと思ったからです。
約束事もない、自由な場です。「こんなふうに考えたらええんやな」と気づき、自分なりに命への向き合い方をつかみ取ってもらえたら。地域のなかで知恵が積み重なっていけばと、やっています。
薬についていえば、病状や病気の進行について平易な言葉で患者さんの理解を確認しながら説明していくことで、患者さんの薬の選び方は変わる気がします。長い目で見れば薬を使っても使わなくても、先の状態が変わらないことはよくあるからです。
それから、人生の終わりを見定めて逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる。そうするなかで、自分で納得して積極的な治療をやめる人もいます。
公的に受けられる治療の範囲は、個人ではどうしようもできません。ですから、毎日を心地よく暮らしていくことを考える方がいい。日々の暮らしが豊かになれば、命も豊かになります。
結局は生き方の問題なのではないでしょうか。最新の薬を使う方が自分らしいのであれば、使えばいい。反対に、そうした薬にしがみついたら、そこだけなんだか自分の生き方と違うなと思う人もいるでしょう。
確かなことはひとつ。不老不死の薬はないということです。(聞き手・北郷美由紀)
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たむらけいこ 57年生まれ。がん看護専門看護師。25年間、ホスピスケアに携わる。著書に「余命18日をどう生きるか」。
−−「耕論 命の値段 相良暁さん、土居丈朗さん、田村恵子さん」、『朝日新聞』2016年09月10日(土)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S12552250.html