2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧
- 五六三(861) 私たちの「認識作用」は、量を確立することに制限されている。しかし、私たちがこうした量の差を質とみなすことを妨げるものは、何もない。質は私たちにとっての遠近法的真理であって、いかなる「それ自体でのもの」でもない。 私たちの感官…
- ……ここでは「考える」ことの中におけるについて少々触れてみたい。 まず頭を柔軟にすることである。一つの思想運動をやっていると一定方向だけ見つめて他のことは全くわからないということになりがちだ。世の中のことをわからないで「社会を変革する」だと…
- 二合の酒で、いつになく長谷川平蔵は、微酔いになった。 日暮れには、まだ、間がある。 「窓を開けてくれぬか」 酒を運んであらわれた座敷女中にそういいつけた平蔵は、 「おだやかな日和がつづくことよ」 独言のように、いった。 「さようでございます、…
- 第三八節 頽落と被投性 世間話、好奇心、曖昧さは、現存在が日常的におのれの「現」を−−世界=内=存在の開示態を−−存在しているありさまの性格である。これらの性格は現存在にそなわる実存論的規定性であるから、そこに客体的に存在する性質ではなく、現…
- 十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの…
- 合理的に考える人がすべて合理主義者とは限らない。合理主義者とは、合理主義という思考のパラダイム、いいかえれば思考の歴史的制度から脱け出すことのできない人のことであるといってよい。その意味でいえば、合理主義それ自体が一種の非合理主義だとい…
- ……われわれが言葉の意味について語る典型的な場面は、その意味を人に説明するときである。だからこそ、『青色本』は次のようにして始まる。「語の意味とは何か。/この問題に迫るためにまず、語の意味と説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものか…
- かつて、社会を階級社会としてとらえ、その社会の土台における経済的搾取、上部構造における政治的支配を重視したのはマルクスだった。いま私は、それらに加えて、社会的管理あるいは管理社会化の問題を取り上げたい。 管理の極限に『一九八四年』があるか…
- 日本が先の戦争に敗れて半世紀がたとうとしている。半世紀といえば、けっして短い期間ではない。まだ、「戦後五十年」などといっているのか、という声が聞こえそうでもあるが、このように、敗戦後何年、という呼び名がいまにいたるまで生きていることに、…
- アリストテレス的な神学の古くからの問題は−−思惟は常に何ものかについての思惟であり、そしてただ「それと並んで」のみまた自己自身に気づくことができるという事実があるにもかかわらず−−ということのうちに成立するが、この問題もまた以上のことによっ…
- 従って本書のなかには人間たちが自らの内奥の真実から身をそらせ、内奥の真実から逃れようとする事実から生じる屈従に代償を与えたいという欲求があるけれども、本来の私の意図はそういう欲求を大きく超えてはみ出している。「普遍経済論」の第二巻である…
- しかし、もし歴史が、しばしば芸術であるとすれば、それはどのような型の芸術であろうか。この手がかりを提供する小道は、簡単に古くまでさかのぼりうるのであるが、たどるにつれてだんだんわかりにくくなってしまう。歴史家が主に忠節を誓うのは真理だけ…
- 「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といってもいいかも知れない。王制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと…
- レヴィナス 私は今日の哲学における形而上学関係者からの批判はまったく意に介していません。けれども「形而上学」という言葉は、それでもやはり、伝統的にいささか意味を積み込み過ぎであるようです。もし私の聞き方が間違っていなければ、あなたは「形而…
- 上坂 第二回目の新人賞が映画評論家の佐藤忠男さんの『任侠について』。あの人のは名文でしたね。 鶴見 佐藤忠男はあれを貫いた。 上坂 あの人はきちっとしています、ほんとに。 鶴見 彼は新潟県で中学校の試験に落第したんだよ。だから中学校に入っていな…
- 存在者との関係は顔への請願であり、すでにして発語であるということ。この関係は地平との関係であるよりもむしろ深さとの、地平にうがたれた穴との関係であるということ。私の隣人は存在者の最たるものであるということ。光り輝く地平線上に存在する、そ…
- キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている。心の優しいキリス…
- 発見不能な「自己同一性」 亡くなった江藤淳は、全共闘運動が終焉に向かった一九七〇年に「『ごっこ』の世界が終わったとき」と題する論文で、 「日本人としての真性の自己同一性」 なるものの模索を試みた。 それ以降、ずっと模索をお続けになり、結局、…
- 国旗は、たとえば李氏朝鮮のばあいには大極旗があり、清朝のばあいには黄龍(イエロー・ドラゴン)がある。しかしイエロー・ドラゴンは清国の国旗ではなく、王朝もしくは清朝皇帝の旗である。五行説にのっとった東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、…
- 愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を誹る言葉になる。僕はそう思う。 慶応大学の憲法学の小林節教授は改憲運動の先頭で闘ってきた。自民党、民主党、公明党にもよく呼ばれ、改憲の話をしている…
- あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える。 −−杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫、1954年、72頁。 - 地域のボスとの闘争、日本共産党のガチンコ、そして独学によるルネ…
- 飯田広助 明治三十年一月六日 新年目出たく申し納め候。 一月一日縷々の来示、昨年中は色々ご心配の事のみ、兵役の方ご免除なれども、その後地方の水害、かたがたもってご出京もむつかしきよし。これは致し方これ無く、また退いて考うれば勉学必ずしも学問…
- 最後に、われわれは学問のために設立された、あらゆる種類の学芸が教えられている大学をもっており、そこでは人間の知性、心、言語が錬磨されるべきものとされている。 −−ヴィーコ(上村忠男・佐々木力訳)『学問の方法』岩波文庫、1987年、24頁。 - 近代…
- 多数決原理は時間的制約下において相互了解のプロセスを理性的に操作可能なものとするが、その際に本来前提されているもろもろの条件に較べて、実際の政治的決定過程がいかにずれているかは、多数決の社会学が冷ややかに明らかにしてくれているとおりであ…
- バルメン宣言を現実化したフランクフルト神学宣言は、バルメン第五項を集団殺戮兵器の問題に適用したものであり、そこから導き出された結論を示している、国家にとって正当化されうる緊急防衛という限界状況であっても、集団殺戮兵器による核戦争には適用…
- ツァラトゥストラは、これらの言葉を述べ終わると、沈黙したが、その有り様は、自分の最後の言葉を述べ終わっていない者のようであった。長いあいだ、彼は杖を自分の手に持って、どちらとも決しかねるふうに、釣り合わせていた。ついに彼は次のように語っ…
- 異論反論 寄稿 岡田斗司夫 今年も続く不況の構造をどう見る? 「消費=労働」の脱・経済社会 大学で教えていると、18〜20歳ぐらいの生活感覚の差に驚く。試しに子どもや部下、生徒に聞いてみよう。彼らはびっくりするほど、お金を使っていない。 なぜだろ…
- E サルトルが提起した問題のなかには、確かに、フランス革命とフランス史におけるその創世的役割の問題がありました。それが重要な事件であったことは、少なくとも、あなたもお認めになっておられるのでしょう? L=S 認めるどころではありません。フラ…
- 人間の体の生存にとり、もっとも不可欠なものは衣食住である。同じく人間の精神にとり、もっとも大切なものは自由である。なかでも宗教は、精神の中核をなすものだけに、宗教を信じる自由(信教の自由)の否定は、その人の人格の否定になる。 −−鈴木範久『…
- 死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである。もし最初にして最後の出来事、ほかでもない各人において共有の権能を呈ししてしまうこの出来事(誕生と死)が共有されるのでなかったら、共同体などありえないだろう。共同体は、「きみと私と」から…