2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧
- 現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の形成の進行とは、ひとつの出来事の両面である。新たに生まれたプロレタリア大衆は、現在の所有関係の廃絶を迫っているが、ファシズムはこの所有関係には手をつけずに、大衆を組織化しようと試みている。ファシズム…
- 世界には抑圧があり、わたしたちは多少とも隷属させられていることは、疑いのない事実である。抑圧され隷属させられている限り、わたしたちは、もはや人間ではなく、ものである。わたしたちは、明晰な意識を持ちながら、ものであることをうけいれることは…
- 生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己の更新の過程である。教育と社会的生命の関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一…
- イザヤは透徹した真実の眼をもつて国と世界の現実を見たがゆゑに、悲哀の預言者たらざるをえなかつたのですが、同時に彼は信仰の眼をもつてエホバの真実によりたのんだから、かくも大なる希望の預言者となつたのです。 悲哀の人にして信仰の人、愛国の人に…
- 自然的生活とは、それが学以前の関心であれ学的関心であれ、また理論的関心であれ実践的関心であれ、それらの関心によって動かされながら、主題化されていない普遍的地平において営まれる生活である。この地平こそまさしく、その自然性においては、つねに…
- 人間はみな、その内的本性に従って、一個の宇宙(コスモス)、その中で現実の世界全体とすべての偉大な歴史的時代とが反映し、内在する一個のミクロコスモス(小宇宙)である。かれはたんに世界の微々たる断片ではない。あるいはまだ自己の意識状態の未熟…
- レッシングの『賢者ナータン Nathan der Weise』の指環の物語は、宗教の究極的な最奥の真理がもはや外面的にではなく内面的にのみ立証されることを現している。歴史的事実による経験的な証明であれ、抽象的な論拠にもとづく論理的・形而上学的証明であれ、…
- 明治のなかば、新渡戸稲造は、日本で学校を終えて、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学した。社会学の先生に試問されたとき、スペンサーならば、どのページに何が書いてあるかまでおぼえているおで、彼の用語についてどんなむずかしい質問にも答えられ…
- 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺…
- 教授過程は、思考の良い習慣を産み出すことに集中すれば、それだけ統一されているのである。われわれは思考の方法について論じてよいのであって、それは間違っているわけではないが、大切なことは、思考することそのものが教育的な訓練の方法なのだ、とい…
- −−お聞きしたいのは、このインターナショナルという概念そのものについてです。最近、それについて話すのすら難しい。グローバルという言葉は許されません。一方で、位置(ロケーション)、国家(ネイション)、文化の空間といった語は使われています。そ…
- 僕は東大の駒場キャンパスで一九九六年から足かけ三年間、「立花ゼミ」というのを開講しまして、そのゼミのタイトルは最初の二年は「調べて、書く」、三年目は「調べて、書く、発信する」としました。 タイトルを「調べて、書く」にしたいといったら、東大…
- 恐らくここに述べてある意見はまだ世論になり切っていないので、一般から支持されることはないだろう。物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ。そして初めはだれもがこの習慣…
- 読書にして人間を造りたいならば 故に私は一言最後にこういっておきたい。先ず読書には或る意味に於て便法なく、一度は艱難して苦しまなければならぬ。その代わりに艱難したならば、後は自由自在に、日本の本ならば縦に読まずに横に読み、西洋の本ならば横…
- 145番(彼女の肖像に描きこまれた称賛の意を、錯誤と呼んで否定しようとするもの) あなたが目にするこの、色塗られた嘘 それは巧みな技のかぎりを尽くして 色彩の生み出す偽りの論法にのっとって 感覚をずる賢く騙すもの。 この偽り、へつらいの思いが 年…
- 芭蕉が「わが門の風流を学ぶやから」(遺語集)ということをいっているが、風流とはいったいどういうことか。風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である。孔子が子路、曾…
- いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だといえる所以である。 種々の場合の目的とする…
- 人生においては休養もあることだし、休養に際しては遊びや楽しみが持たれるのであるから、ここにおいても何らか調子のとれた交歓といったようなものがあり、そこには語るべき−−同じくまた聞いていい−−ことがらと仕方があると考えられる。そして、かくかく…
- 野蛮の政治はひとを覊扼す。文明の民は覊扼を免る。文野の別、ただその民の言行自由を得ると得ざるとにおいて視るべきのみ。それ人の性霊、もと自由なり。君子静居、天を敬し善を思う。大悪魔王といえども、絶てその自由を障碍すること能わず。ただその言…
- あらゆるひとびとの解して正義(デイカイオシュネー)となすところのものは次のような「状態(ヘクシス)」にほかならないのをわれわれは見る。正義とは、すなわち、ひとびとをして正しいものごとを行うたちのひとたらしめるような「状態(ヘクシス)」、…
- ヨーロッパの個性は、その根拠を知的教養のうちにもっており、決して情緒的性格の違いを尊重するものではない。なぜならヨーロッパ思想では、情緒は身体的に発生するものであって、それは尊重に値するものではなく、尊重に値するのは、知的教養における独…
- 党派の中の勇気。−−あわれな羊たちはその隊長に言う。「とにかく先に立って行ってくれ。そうすればわれわれは君について行く勇気を決して無くさないであろう。」あわれな隊長はしかし心の中で考える。「とにかく私の後をついて来てくれ。そうすれば私は諸…
- 日本人はたしかに宗教に対してアレルギーをもつところがある。昨今のカルト的事件によってそれはあからさまになってきている。だから、キリスト教の説明もまともに聞いたことのある人は少ない。そしてたぶん、仏教についてもである。だから宗教に対する無…
- 日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるものであるに…
- 他方、革命の歴史家たちは、暗黙のうちに、革命的群衆を、多少とも組織性をもった行動や祝典参加のためなどに、さまざまな個人が、共通の情念ないし同一の理性的判断に基づいて、自覚的に集まったもの、とみなしているように思われる。しかし、こうした集…
- (一) 人類については、純粋な集合体、つまり純粋状態の群衆は存在しないと、逆説的にではなしに言うことができる。というのは、純粋な集合体を私は、異質な要素より成るものと定義したが、人類にあっては、集合体の構成メンバーはつねに何らかの程度に集…
- どんな天才にも限界がある。石原においては、英邁な大帝によって輝かしく統治された明治を厳しく閉鎖的な軍人世界のただなかで生きたということが一つ。第二に、その信奉する日蓮主義がこれまた熱烈な忠君愛国精神と密着していたこと、そして、それは大乗…
- しかも、諸国の王たちから尊敬を受けていることもさりながら、これらの書簡−−たとえ真作ではないとしても、早い時期の証言としてけっして価値のないものではない−−にうかがわれるところからすれば、プラトンはもっと普通の階層の人びとにも同じように心底…
- 日記 明治45年1月16日 今の政治に今の日本を見る、恰も下野の岩舟山の如し。岩舟山ハ奇景の独立山なり。この山より石材出づ。全山皆岩山なり。営業者争つて石材を伐る。山の風致を破るニ頓着なし。 政治また然り。争つて天然に疵けまた深心を破るなり。曰…
- すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう。 他人の血を理解するということは、たやすくできるこではない。わたしは怠け者…