2011-05-01から1ヶ月間の記事一覧

「瞬間の安心と完成を発見すること」は哲学ではない

- 哲学の本質はいかに言い表わされるか さてかくも一般的に、またかくも独特な形態をもって現れる哲学とはいかなるものでありましょうか。 哲学者(philosophos)というギリシア語は、学者(sophos)と対立する言葉であって、知識をもつことによって知者と呼…

「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ

- このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに…

無秩序はただわれわれが求めていない秩序である

- 無秩序の観念についても私は同じように言いたい。なぜ宇宙は秩序をもっているか。どうして規則が不規則的なものに、形相が質料に押しつけられるのか。われわれの思考が自分自身を事物のうちに見いだすのはどういうわけか。この問題は、古代の哲学者におい…

「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。

- 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、としての意味の次元にとど…

人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ること

- ついでながら、人間がしばしば年をとって、若いころ持たなかったような、歴史に対する感覚を得るのは、体験と忍苦の数十年を経過するあいだに人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ることにもとづいている。根本において、必ずしも意識されてはないが、老…

日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心

- 日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心なのであります。またそこに文化の根元が潜みます。人間の真価は、その日常の暮らしの中に、最も正直に示されるでありましょう。 −−柳宗悦『手仕事の日本』岩波文庫、1985年、231頁。 - 先日、キャベツの中から…

「人間を歪めるもの」に対する抵抗は、イデオロギーが先行してはなりませんよ、ホント

- ……エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ル…

美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。

- 美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。 −−正岡子規『墨汁一滴』岩波文庫、1984年、90頁。 - 気分転換に近所を自転車で走ってきたのですが、美しい花が精一杯咲き誇っておりました。紫陽花は少しフライング気味のようでしたが……、ま…

フェアプレーの義務は、基本的な道徳的観念としての忠実や感謝のような、他の一応の義務と並ぶものである。しかし、これらの義務と混同されるべきではない

- フェアプレーの義務は、基本的な道徳的観念としての忠実や感謝のような、他の一応の義務と並ぶものである。しかし、これらの義務と混同されるべきではない。これらの義務はすべて、それらの定義から明らかなように、明確に異なっている。あらゆる道徳的義…

「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけ

- 物のまわりをかぎまわって、物の目じるしをあつめ、物を分類してきたこれまでの哲学は、カントがあらわれたので、研究を中止してしまった。カントは人間の心そのものをしらべるように研究をひきもどして、人間の心にあらわれてくるものを吟味した。カント…

かくして……計画的に……自由となるのけ?

- 三 プロレタリア革命。矛盾の解決、すなわち、プロレタリアートは公共権力を掌握し、この権力によってブルジョワジーの手からはなれ落ちつつある社会的生産手段を公共所有物に転化する。この行動によって、プロレタリアートは、これまで生産手段がもってい…

科学的教養を身につける努力

- ウィリアム・ジェームズ以来、しばしば、こういうことがくりかえし言われてきた。教養のある人は誰でも、宿命的に、何か一つの形而上学を信条としている、と。しかしわれわれには、次のように言ったほうが、もっと正確であると思われる。すなわち、どんな…

東日本大震災の記録:5月20日「東京電力からのお詫びとお知らせ」。

- 東北地方太平洋沖地震の影響に伴う福島第一原子力発電所の事故、および放射性物質の放出により、発電所の周辺地域の皆さま、広く社会の皆様に大変なご心配とご迷惑をおかけし、心より深くお詫び申し上げます。 当社は、政府・関係各省庁や自治体などのご支…

それをたらしめるためには「不満をもちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地のよい「消費者」であることから脱け出さなければならない」

- デモクラシーは、決して完成されることがない。絶えず未完成であり続けるはずだ。人間としての限界によって制約はされてはいても、デモクラシーの空間にデーモスとして足を踏み入れ、自分たちが公的な存在として相互に認知し合うとき、自分は決して無力で…

[資料]「異論反論 反原発デモが盛り上がっています 人の犠牲の上に立つ社会とは 寄稿 雨宮処凛」、『毎日新聞』2011年5月18日付(水)。

- 「異論反論 反原発デモが盛り上がっています 人の犠牲の上に立つ社会とは」 寄稿 雨宮処凛 反原発・脱原原発でもが全国で相次いでいる。東京都内では週末ごとに大規模デモが起こり、ほぼ毎日、全国どこかで「反原発」の声が上がっている。 私自身も1万5…

民主主義制度の「おもうつぼ」に入らぬように・・・

- 民主主義の論理上の欠点は、政治の過程や結果よりも政治の起源に気をとられたことにあった。つねに民主政治論者は、政治権力が正しい方法でもたらされたのなら、その権力は有益なものである、と考えてきた。彼の全視線は権力の源泉に注がれてきた。という…

「わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)」ことの自覚と脱獄へ

- この世のさまざまな事柄についての幻想は、存在に関するものではなく、価値に関するものである。洞窟のたとえも、価値に関係がある。わたしたちが所有しているのは、ただ善の模造品の影ばかりである。だから、善との関連でいえば、わたしたちは囚われの身…

絶望するしかない窮地に追いこまれても、目の前が暗くなって、魂が身体を離れるその瞬間まで、あきらめるな

※東京へ戻るため新千歳空港へ向かう快速エアポートから - チサキを助けるためには、罠がまっているとわかっている地へ、行かねばならない。 恐ろしかった。母に教えられたように、として、冷静であらねばと思ったが、胸の底にひろがっていくおびえを消すこと…

君神聖なる普通の存在を、君ら大地と生命を最後の光の矢が放たれるまでわたしは歌う。

- 終わりを告げた一日のわたしを浸しわたしを満たす輝きを、 未来を予兆するひとときを、過去をくり帰すひとときを、 咽喉をいっぱにふくらませつつ、君神聖なる普通の存在を、 君ら大地と生命を最後の光の矢が放たれるまでわたしは歌う。 −−ホイットマン(…

旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市編「THE BUFFET(ザ・ブッフェ) 大丸札幌」

- 「網掛けの人……もし、さむらい松五郎さん……」 よびかけながら、男がついて来て、 「この、須坂の峰蔵の顔を忘れなすったかえ?」 忠吾は、こたえぬ。 「ま、それもむりはねえ。七年前に、ひとりばたらきのおれが、湯屋谷の富右衛門お頭のところに、ちょい…

旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市、番外編「SUNTORY BAR 1999」

表題の通り番外編。F45ビルの8Fの「魚まさ」で24:00まで呑んでから、そのまま1Fのサントリー直営のショットバー「SUNTORY BAR 1999」へ直行w女性バーテンダーが迎えてくれる洒落たお店ですが、たしか、山崎とアイラモルトをがぶがぶとやったのですが・・…

旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市編「函館海鮮居酒屋 魚まさ」

- そのころ、秋山小兵衛は元長の二階で、松村伊織と酒を酌みかわしていた。 小兵衛が、きげんよく酒をすすめるものだから、伊織は先刻の醜態を忘れ果てたかのように盃を重ね、小兵衛のさそいにのって、 「いや、先生、まことにどうも……わたしも、あのような…

「情報過多は、むしろ理解の妨げ」になるどころか「自分の判断を下す手間まで省いてくれる」とは……。

- ここに読書家というのは、情報や知識を主として活字によって得る習慣のある人のことである。ラジオ、テレビの発達したマス・メディアの時代の今日であるが、このような習慣のある人たちこそ、本当の読書家と呼ぶにふさわしい。 昔のインテリはたいてい、こ…

『近道』をさけて『道』を創造していくということ

- 「道。」−−いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ−−そして道を失う。 −−ニーチェ(茅野良男訳)『曙光 ニーチェ全集7』ちくま学芸文庫、1993年、69頁。 - …

古来、哲学と称せられるものは、何等かの意味において深い生命の要求に基づかざるものはない

- 古来、哲学と称せられるものは、何等かの意味において深い生命の要求に基づかざるものはない。人生問題というものなくして何処に哲学というべきものがあるであろう。 −−西田幾多郎「生の哲学について」、『西田幾多郎全集 第6巻』岩波書店、1965年。 - 月…

どんな本も、それは自分を解放する手がかりだ

- すべての本はやがて失われる。だが、自分の読んだ本は、自分が自分をとらえる手がかりであり、もうひとりの自分というものである。人間のつくった本は、本という形を超えて、人間の活動の中に生きている。 ブラジル、ユーゴスラヴィア、フランス、米国、イ…

すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者はしめ出される危険

- ……今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。つまり北米合衆国でいわれているように、他人と違うということ即ふしだらなことで…

学問的真実、政治的真実、妄想的真実の混乱……

- 普通のひとは日常生活に忙しすぎて専門書を読んで議論したり、生活圏以外のことを考えたりする時間があまりない。だから、学者がちゃんと勉強して、まともな情報をまともに解析して、「世の中はこうなっていますよ」、「こうしてはいかがですか」、あるい…

矛盾をおかす力

- 矛盾をおかす力。−−矛盾に堪え得る、ということが、文化の高さの徴候であるとは、現在では誰でもが知っている。のみならず若干の人たちは、高級な人間が今まで気づかなかった自分の不正について暗示を得るため自分自身に対する矛盾を願いもし喚び起こしも…

自己の存在が他者性とどのように交差するのか……。

- 自身の責任を完全にとることの不可能性は、〔人が体験を〕物語として再構成する際につきものの、単純化できない主体と主体の間の文脈によっている。私が自らの人生を物語として再構成する際には、必ず主体間の一定の文脈内で行うのだ。が呼びかける命令に…