森巣博が提唱する「ちんぽこ」モデル−−戦後日本の、数多くの日本論・日本人論を素描してみよう!

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森巣博が提唱する「ちんぽこ」モデル−−戦後日本の、数多くの日本論・日本人論を素描してみよう!

森巣 ちょっとここで、私なりに、戦後の日本論・日本人論の流れを、簡単に素描させてください。
姜 お願いします。
森巣 まず、「国体」ナショナリズムの呪術的文体を駆使した、数多くの和製「日本人論」は配線によって完全に破綻しました。唯一、敵国研究を目的に書かれた日本人論であるルース・ベネディクトの『菊と刀』だけがこの時期に読まれていた。和製「日本人論」の復活は、日本が、朝鮮戦争の特需景気で、経済力にある程度自信をつけはじめたころのことです。一九四九年、文化国民主義者であった和辻哲郎の『風土』が再販されています。その後、「経済成長右肩上がり神話」を背景に、無数の日本人論が出てくるわけですが、それらをいちいち解説していくのは大変ですし、何よりも虚しい作業です。それで、私はかねてから、それらをまとめて、以下のように整理しているのですが、的外れだったら、遠慮なくご批判願います。
姜 どうぞ。
森巣 和辻哲郎以降の日本論・日本人論は、一貫して、「俺のちんぽこは大きいぞ論」でした。それがバブルと共に見事に破綻するわけです。そうすると今度は、九〇年代を代表する「俺のちんぽこは硬いぞ論」が出てきた。それが湾岸戦争の経験を通した藤岡信勝あたりの説につながるわけです。ところが、ちんぽこの硬さなどといったものは不定である。昨夜のふにゃちん、今朝のこちんこちんこ、という体験は、おそらく男性のほとんどがしているわけです。そこで最近出てきたのが「俺のちんぽこは古いぞ論」。これが、一連の遺跡捏造事件の背景にあるのではないかと、ささやかに私的に考えているのですが(笑)。
姜 それに倣って言えば、私が先ほど申し上げた文化ナショナリズムは、「俺のちんぽこは繊細だぞ論」なんでしょうね。
森巣 繊細だ。それもありますね。それ、どっかに入れましょう。しかし、先生、繊細なちんぽことは、早漏と同義じゃないですかね(笑)。
姜 しかし、「俺のちんぽこは繊細だぞ論」は、九〇年代になって、「俺のちんぽこは硬いぞ論」に戻っちゃう。
森巣 ちんぽこの大きさや硬さなどどうでもよろしいと、いい歳したオッサンたちがなぜ気付かないんでしょうか。つまり自信がないんですなあぁ。
姜 やっぱり、九〇年代以降を一言で総括すると、「国家」だと思うんです。九〇年代以前は、国家というものを射程に入れずに、日本社会論とか、日本共同体論とか、民族論などが議論されていたわけです。しかし、坂本多加雄たちと西尾幹二たちの間には微妙な違いがあります。が、九〇年代になって、国家を意識したナショナリズムには意味がないという問題意識が強くなった。でも、政治ナショナリズムは、論としては、むしろ古いんですよ。近代ナショナリズムは、本来は、経済ナショナリズムを背景にした文化ナショナリズムなどではなく、ストレートな政治ナショナリズムでしたから。坂本多加雄たちが、国家という形でナショナリズムの鼓舞を始めたのは、やはり湾岸戦争の影響が大きかったと思います。
    −−姜尚中森巣博ナショナリズムの克服』集英社新書、2002年、60−62頁。

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排他的に正義を語ることの不毛さが端的に現れてくるのがナショナリズムの言説になろうかと思いますが、その恣意的な言説伝統を概観した一節がうえの部分です。

正義論とは本来、他者間の調整概念として提示されたものといってよかろうかと思うのですが、その立ち位置というものを失念してしまうと、「いい歳したオッサンたちがなぜ気付かないんでしょうか。つまり自信がないんですなあぁ」になっちゃんだろうなア。

まあ、これは、リスペクトする対象が国家だけには限定されない問題なのですけどね。


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