レヴィナス:「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」





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 −−エマニュエル・レヴィナス、たとえば高校三年生の若者がやってきて、あなたが哲学をどのように定義するかをたずねたと想像してみましょう。あなたはその若者に何と答えますか。

 哲学とは人間が語ることがら、また思考しながら語りあうことがらについて問うことを可能にするのだ、と私なら答えるでしょう。言葉のリズムや言葉が示す一般性にうっとりと酔ったままいるのではなく、この現実というもののなかの唯一者の唯一性、つまり他者の唯一性へとみずからを開くことなのです。言い換えるなら、要するに愛へとみずからを開くことなのです。歌うようにではなく真に話すこと、目を覚ますこと、酔いから覚めること、リフレインと手を切ること、それが哲学なのです。すでに哲学者アランは、明晰とされている私たちの文明のなかで「眠りの商人」から到来するあらゆるものについて、私たちに警告していました。すでに目覚めをしるしづけていたさまざまな明白なことがらは、しかし依然として、またつねに夢になってしまっているのですが、そのような明白なことがらのなかで、哲学は不眠として、新たな目覚めとしてあるのです。

 −−不眠であることが重要なのでしょうか。
 目覚めは人間に固有のものだ、と私は思います。目覚めとは、酔いからの、より深い哲学的な覚醒を目覚めた者たちが探求することなのです。それはまさしく他者との出会いです。他者が私たちを目覚めへと促すのです。また、目覚めはソクラテスとその対話者たちとの対話に由来するさまざまなテクストとの出会いでもあるのです。

 −−他なるものが私たちを哲学者たらしめるのでしょうか。
 ある意味ではそうです。他なるものとの出会いは大いなる経験、あるいは大いなる出来事なのです。他者との出会いは補足的知識の獲得に還元されることはありません。私には決して他者を全体的に把握することなどできません。もちろんそうです。けれども、言語の生誕地たる、他者に対する責任、他者との社会性は認識をはみ出してしまうのです。私たちの師であるギリシャ人たちはこの天に関しては慎重ではありましたが。
    −−エマニュエル・レヴィナス合田正人・谷口博史訳)「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」、『歴史の不測 付論:自由と命令/超越と高さ』法政大学出版局、1997年。

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