キュリー夫人、「そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望」を






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 −−このままでは未来は暗いですか。
 マリー そう。いや、私はいかなるときにも悲観論者ではないのです。
 これは私の人生の経験から言うことですが、どんな場合にもあきらめは禁物です。あきらめることで、いっそう悪い結果になります。いつも希望をもって、自分の力で未来を切り開いていこうとする、その気持ちがあるときには、かならず望みがかなえられる気がします。いまの若い人たちに私が言えるとしたら、そのことだと思います。地球の未来について真剣に考えると、けっして明るいものではないかもしれない。しかし、そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望を捨ててほしくないのです。
 私は、苦しいことのなかで育ち、勉強し、研究し、さらに放射線の影響で人生の後の半分は体の不調にもたいへん苦しみました。ノーベル賞をもらったりしたので「栄光の人生」などといわれますが、苦しいことのほうが多かったようにも思えます。でも、いつも未来への明るい希望と情熱をもっていたので、苦しさもまた楽しさとなり、充実した人生を送れたと思っていますし、そうできたことを有難いと思っています。
    −−高木仁三郎マリー・キュリーが考えたこと』岩波ジュニア新書、1992年、201−202頁。

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久しぶりに高木 仁三郎(1938−2000)さんの『マリー・キュリーが考えたこと』を読み直しましたが、再読して正解。

岩波ジュニア新書だから、読者を高校生と想定して編まれたシリーズで、内容は、前半がマリー・キュリー(Maria Skłodowska-Curie,1867−1934)の生涯、後半は彼女が生きていたら現在をどう考えるかという作品。

「地球の未来について真剣に考えると、けっして明るいものではないかもしれない。しかし、そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望を捨ててほしくないのです」。

お勧めです。








⇒ ココログ版 キュリー夫人、「そこであきらめたり、無関心になったりしないで、自分たちでやれば未来が開けてくる、という希望」を: Essais d'herméneutique