しかし、「自分が正しい」と思うことの責任説明は丁寧にやる、そしてその実践的運動においても「みぐるしくない」ことを実践するのは一つの責任だと思う






ツイッターでの連投のまとめで恐縮ですが……、一応、のせておくかw
酔っぱらいの戯れ言です(キリッ

「マジメ」であることを決して否定しようとは思わないのですが、「マジメ」であるということは、結局他律的な物差しにおいて測られる価値にしかすぎないから、それは、たぶん、相手に対する配慮になるのではなく、自己がどう規定されるかというところにおちつくのかなあと思ったりします。

くどいけれども、それを否定しようと言うわけではないんですよ。ただ、その人の自己規定が「マジメである」という一つの水準器におちつくならば、そこには他者論が全く出てこなるという話。人間は一人でいきているわけではないし、様々な矛盾に拘束されていきています。

そこを踏まえて、「マジメである」ってところを深く認識しない限り、それは他者への想像力を欠いた、そして注意力を欠いた自己同一性を優先させる……「僕は無罪ですよ」式の排他的暴力に他ならないんだと思うんですよね。

正論を吐く、模範解答を提示することは簡単です。ですが、それを納得させるためには、その人自身がその人に関わる他者に、どのような言葉、態度、物腰で向かい合うのかという極限まで逡巡・熟慮・決断という過程があわさったものでなければならないはずなんです。それを省略したんじゃ伝わらない。

意固地になって「お前らアホか」って開きなおるようなことはしたくないんですよ、かっこわるいし。であるならば、一度は理解されなくても、理解してもらうまでの挑戦をしていかない限り、その二律背反というのは永遠に続いていってしまうのかな〜ってところなんですね。

20世紀の悲劇は、一部の狂信的独裁者の独断にと「還元」される向きがあります(そしてそれは否定しません)。しかし、莫大に加速させたのは想像力と配慮を欠いたエリートと「考えること」をするーした「無辜」の市民なんです(アレント)。

確かにそれは問題だろーって指摘した人は少なからず存在しましたが、正論としての模範解答を強要しただけでオワッタ。結果、受けいれられることなくオワッタ。そうではない選択肢、言い換えるならば勇気ある挑戦を僕はしたいと思う。

ぼくは、なにかよくしようという運動だとか、「ぼくはまじめな青年です」(キリッっていうのを揶揄しようとは決して思いません。しかし、「自分が正しい」と思うことの責任説明は丁寧にやる、そしてその実践的運動においても「みぐるしくない」ことを実践するのは一つの責任だと思う。以上。





⇒ ココログ版 しかし、「自分が正しい」と思うことの責任説明は丁寧にやる、そしてその実践的運動においても「みぐるしくない」ことを実践するのは一つの責任だと思う: Essais d'herméneutique


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