原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律としての奴隷根性
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僕は余りに馬鹿々々しい事実を列挙して来た。今時こんな事を言って、何のためになるのかと思われるような、ベラボーな事実を列挙して来た。けれどもなお僕に一言の結論を許して戴きたい。
主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖の上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。
そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去る事の出来ない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日の一切の道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。
政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめる事は、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ。
−−大杉栄「奴隷根性論」、飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年、40ー41頁。
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何か事があると「日の丸」を掲げた御仁ていうのはどうも国士気取りの人が多いようですね。
僕は現政権が致命的とは承知ですけれども、何かあるとすぐに法改正だ!と掛け声だけは大きいのだけど、結局それで全て改善されると思ってるのかしら……などと思うことが屡々あります。
この脊髄反射に似た……それが全て悪いとはいいませんが……何かを除去すれば完結するとか、整備すればすべてOKていう発想には強烈な違和感です。
外面的整備は必要不可欠ですが、それでことをよしとみてしまうことは、一個の人間存在は、他律的な規範変更によってすべて改善可能だと見てしまうものの見方なのではないかあと思ってしまうわけなんですよね。
その意味では、他律的……という問題は文字通り「他から規律される」わけですから、それは一種の「奴隷根性」の現れなのかも知れません。
まあ、自分自身の変革や関わる人間を大切にする眼差しが全く見えてこない。何もかわりませんよ( `Д´)
さて……。
カント(Immanuel Kant,1724−1804)が『純粋理性批判』乃至『道徳形而上学概論』で指摘している通り、道徳とは「盲従、崇拝」の概念ではなく、自らが主体的にそれを守って生きていくというところにその本義があります(カントの言う「自律」)。
カントがわざわざ、道徳学を構想し、そこまで言及せざるをえなかった背景には、道徳をアナキスト・大杉栄(1885−1923)指摘する通り、「奴隷根性」としての受容が洋の東西を問わずあったのかもしれません。
いうなれば他律から自律へ。
この転換がない限り、いくら「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたり」しても根本的な転換にはなりえないのかもしれませんね。
まあ、自分自身の変革や関わる人間を大切にする眼差しが全く見えてこないようでは、何もかわりませんよ( `Д´)
⇒ ココログ版 原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律としての奴隷根性 : Essais d'herméneutique