覚え書:「白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年/上 「80ばあちゃん」ブログ発信」、『毎日新聞』2011年12月7日(水)付。

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白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年/上 「80ばあちゃん」ブログ発信

四六時中命の心配。防空壕から出て米機に狙い撃ちされそうに…
「若者に伝えたい」講習受け開設 小学校で出前授業も
 横浜市郊外の住宅街。人々が眠りについているころ、荒武千恵子さん(81)は書斎にこもり、パソコンのキーボードに指を走らせる。戦争体験をつづったブログ「80ばあちゃんの戯言 聞いてほしくて」(http://blog.goo.ne.jp/fujimi09/)を更新し、コメントを読んで返信するためだ。数時間パソコンに向かう夜もある。

 きっかけは孫娘の一言だった。15年ほど前、家族で遠出する車中で昔の空襲のことを話した。「敵機が空を低く飛んで、飛行士の顔が見えるほどだった。飛行機からどんどん弾を撃ってくるのよ」。しかし、小学校入学前だった孫はあっさりと言い放った。
 「そんなことあるわけない」
 満ち足りた日本で暮らす子どもには、あり得ない世界なのか。ショックを受けた。
 荒武さんは40代で家具製造販売の会社を起こし、母の介護や夫の海外赴任など、70代まで忙しい日々が続いた。「いつか体験を伝えたい」と思いながら、手つかずだった。
 8年前に夫に先立たれ、気持ちを前向きにしようと朗読を習い始めた。戦争作品の朗読会にも行ったが参加者は高齢者ばかり。「若い人に言いたいのに、これでは伝わらない」。ブログを紹介するテレビを見てひらめき、講習を受けに行った。
 10代後半で英文タイプを身につけ、パソコンの扱いにも慣れていた。ブログは習ったその日に始めた。「豊かな世の中が続いてきたのではなく、空襲で家を焼かれることがあったのだと知ってほしい」。人の目に触れるよう、今では三つのブログを運営する。
 <私、数えの80歳。しわくちゃのギャルです>
 最初にブログを書いたのは09年3月だ。
 <横浜で焼夷弾(しょういだん)、爆弾、機銃掃射にあいましたし、四六時中命の心配をしていたのです。いつもお腹(なか)はぺッコペコでした。膝ががくがくしていました>
 反応があるか不安だったが、初日は10件の感想が書き込まれほっとした。政治やスポーツのことも語るが、多いテーマは戦争だ。

   ×  ×
 70年前の12月8日。小学校5年生だった荒武さんは真珠湾攻撃の戦果を学校で聞いた。算数の時間の最中で、そろばんを振り上げ万歳したのを覚えている。帰ってくると、陸軍予備将校だった父が行李(こうり)の中の軍服や軍靴を虫干ししていた。
 <「フランスには昔、ジャンヌダルクという少女がいて、先頭に立って国を勝利に導いた。お前も何かあったときには気概を持って戦え」>。父は娘に向かい、そう言った。
 荒武さんはその心中を思いやる。
 <小さな女の子にこんな言葉を残さなければならなかった父はどんなにつらかっただろうか>
 空襲のことは折に触れて書き込む。おしっこがしたいという弟を連れ防空壕(ごう)を出て、米機に狙い撃ちされそうになったこと。全焼した自宅跡に戻ると、分厚い辞書がそのままの形で灰になっていたこと……。
 <戦争を知らない世代ですけど……80ばあちゃんの体験談にはいつも鳥肌が立つ思いです><このブログは大変貴重な存在だと思います>。熱のこもったコメントが届く。11歳の子から感想をもらったこともある。三つのブログは1日約100人が読んでおり、コメントには丁寧に返事を書く。「いろいろな人とつながって幸せです」
 福岡市の竹森久美さん(43)とは互いのブログを通じて知り合い、メールや電話でやりとりするようになった。竹森さんは旧満州中国東北部)から引き揚げてきた母をもつ。幼いころ聞いた戦争体験はぴんとこなかったが、荒武さんのブログを読み「点と線がつながった」と話す。
 竹森さんの次男は小6の時、夏休みの宿題で戦争をテーマにした「平和新聞」を作った。荒武さんのブログを読み、戦後の食料事情のくだりを引用させてもらったという。
 小学生から高校生までの3人の子をもつ竹森さんは、我が子に「戦争のことを学んでほしい」と願う。「日本と世界を知ることにつながり、人の痛みを考える力がつくと思う。荒武さんに出会えたことを感謝しています」

   ×  ×
 ネットから戦争体験を広めていた荒武さんは焦っていた。生きているうちに、直接子どもたちに話したい。ブログでも呼びかけた。
 横浜市立中川小学校で授業をしてほしいという話が舞い込んだ。依頼したのは、学校と地域社会をつなぐボランティアをする高橋満さん(43)だ。ブログを読み「生の声を子どもたちに聞かせたい」と思ったという。荒武さんは体調を崩さないよう外出を控え、時計を見ながら原稿を読む練習もした。大豆かすや麦だらけだったお弁当や、焼夷弾の模型を紙粘土などで手作りした。
 今月5日、念願の授業の日。焼夷弾の模型を手に空襲のことを話した。「飛行機から、ばらばら降ってくるんです。油や薬品が入っていて燃え広がります。火の海を頭から水をかぶって逃げました」。食料事情も伝えた。「お弁当のおかずは、半分に切ったたくあんが4切れだけ。育ち盛りなのに体重が減りました」
 真剣な表情の子どもたちに向かい、荒武さんは最後に笑顔で呼びかけた。「会えて本当にうれしい。戦争になったら大変だから、なる前に反対しましょう」

   ×  ×
 1941年12月8日、日本は米国に奇襲をかけ、泥沼の戦争にのめりこんでいった。それから70年。十分な食べ物もなく、炎の下を逃げまどった日々は遠い。戦争の記憶をどう次世代につないでいくのか。ブログで、映像で、当時を残そうとする戦争体験者と若者の取り組みを追った。【木村葉子】
    −−「白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年/上 「80ばあちゃん」ブログ発信」、『毎日新聞』2011年12月7日(水)付。

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http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111207ddm013040153000c.html



荒武千恵子さんのブログ「80ばあちゃんの戯言 聞いてほしくて」 ⇒ 80ばあちゃんの戯言



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