あらゆる政治運動というものは、近寄って見れば、人間的なものから見れば、つねに陰惨で暗澹とした色彩を有する


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 あらゆる政治運動というものは、近寄って見れば、人間的なものから見れば、つねに陰惨で暗澹とした色彩を有する。どのように高尚な理想であっても、現実の地上に具体化された場合には、つねにその理念の姿はゆがめられているものである。
    −−ツワイク(高橋 禎二、秋山 英夫訳)『マリー・アントワネット 上』岩波文庫、1980年、341頁。

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そうなってしまう理由にはいくつかあるんだろうけれども、まず一つは、自分自身の党派性を「失念したまま」“中立”を装うパターンがひとつ。

人間には神の如き、完全な真空地帯としての「客観性」の眼差しなど選択しえないから、それを自覚したうえで、異なる見解と向かいあう必要がある。それを失念して自らの考え方を中立的見解であると見たりすると、まあ、「人間的なもの」から遠ざかってしまうてことだよな。

それからこの観点にひとつ付け加えると、そうした「中立」装いすらもすっ飛ばして「猛進」してしまう手合いも多いがそれも「人間的なもの」から遠ざかってしまうことは言うまでもありません。眼としての「神」ではありませんが、自分自身を「神」と錯覚している暴挙ですからね。

そしてもう一つは、「椅子取りゲーム」の勇者をめざすためには、あらゆる立場を利用して、自分を「善」へと位置づけるやり方。「私は正しいです」「差別主義者ではありません」ということを「アピール」することが目的にされた小市民的メンタリティーですが、これは結局の所、自分自身の領地や椅子の保全が最大限になるから、すべての人間は「目的」ではなく「手段」として扱われてしまうて話。

これも同じように「人間的なもの」から遠ざかってしまう。

自分自身が糞野郎であるということ、そしてそれから糞の意見が「中立」でも何でもないてことを自覚しながら、他者とすり合わせていくことが大事なんだが……、このところいろいろな問題で正反が衝突する言説をみるにつけ、その辺りに「盲目」「無自覚」である手合いが多くて「涙」ってことです。





 



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