「私の親兄弟はあなたの国の兵隊によって殺されたのだ」と言われた時、あなたはどう対応すべきか。





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*戦後世代は「道徳的責任」を負う必要はないが「政治的責任」はある
……以上の観点に立って「戦争責任」の問題を再び問い直すなら、次のようになろう。
 戦後世代は、旧帝国が行った戦争の「悪」の部分に対して、だれも「道徳的責任」を負う必要がない。しかし国民国家の一員としてその法的保護を受け、人権を保障された存在である限り、個体を超えた連続性としてある国家の所業の結果を何らあの形でき継がざるをえない。つまりごく形式的な意味では、すべての戦後国民にも「政治的責任」があるということになる。ただしそれは、すべtの国民に等量の(言葉で「だれもがこれこれの義務を負う」と一般的に確定できるような)責任があると解されてはならない。
 また「責任」という場合、この言葉からできるだけ情緒的、精神主義的な要素を排除しとくことが必要である。たとえば「だれもが恥じ入るべきだ」といった言い方でこれを考えると、それはいわれもなく「道徳的責任」を強制することになる。現在、「情念としての国家」の負の部分をただの個人が過剰に背負うことは、現実的でもないし、今後の私たちの生活の方向にとってよいことでもない。
 そこで、戦後世代の「政治責任」を、職分や地位、権力に応じた機能分担と考えるのが最も合理的である。つまり、たとえば国政の重要職に就くものは、国家機能の担い手として、またその職分が戦後処理に具体的にかかあるかぎりで、以前から国家の「負債」を処理する責任を負う(その場合、どんな問題〔たとえば従軍慰安婦問題〕)が、どれ程の重要性を持った「戦後処理」問題に属するかに応じて議論が分かれ、責任の取り方も変わってくるが、それはここで論ずべき、問題ではない)。また、国政に直接かかわりのない「国民一般」の政治的責任は、「より正確な歴史認識を持とうとする努力を怠らず、政治参加の際にそれをなるべく生かす」といったミニマムなものに限定されるべきである。
 人はひとりの「私」人として振る舞う限りでは、どんな意味でも個としての生活範囲を逸脱した超越的な「公」の観念に身をささげるべき必然性を持っていない。したがって、自分の時空限界を超えた「公」的な責任を引き受けなければならぬという観念は、一般者に対してけっして戒律として強制されてはならない。
 しかしまた、一人の人間が、一生の間に、自分を超えた何の「公」的な連続性の観念ともかかわりを持たないということもありえない。人は、多かれ少なかれ、「私」と「公」との矛盾を抱えたまま生きるのである。その「公」の部分とかかわるところで初めて「責任」の観念が意味を持つ。そしてそれは。道徳的、情緒的、精神的なもの−−恥じたり、詫びたりする「姿勢」−−と、政治的、合理的、具体的なもの−−「責務」として考えられる実践−−とに分けて考えることができる。「悪」の現場に居合わせたものはこの両方を背負う可能性を持つが、居合わせなかったものは、後者のみ背負う可能性を持つ。
 最後に、次のような疑問に答えておこう。
 もしあなたが中国旅行などをして、中国人から「私の親兄弟はあなたの国の兵隊によって殺されたのだ」と言われた時、あなたはどう対応すべきか。あなたは共同性を過剰に背負ってすくみ上がってはいけない。
 あなたはこう答えるべきである。「私は日本国家がかつてあなたがたに迷惑をかけたことを知っていますし、それについて国家としてしかるべき責任をとるべきだと思っています。もし私が国政の責任ある地位にいて、そのための公的な機能を公使できるなら、私は極力それを行うでしょう。しかし、旧日本国家のやったことに対する非難感情を、私が単に日本人であるからという理由で個人としての私に向けることは無意味です。私は、あなたがたに悪感情を持ったことも、あなたがたの土地を侵略したこともありません。そしてあなたがたと、国家とか民族とか入った観念をなるべく介さずに、具体的な生活行動を通じてこそ仲良くしたいと思っていますし、また仲良くなれると思います」。
    −−小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか  新しい倫理学のために』洋泉社新書、2000年、228−231頁。

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ちょっと時間がないので、後日また改めようかとは思いますが、少しだけ。

小浜逸郎氏の見解に全面賛成というわけではありませんが、過度の「道義」臭を割愛したうえでの、未来への展望という意味では、このあたりの矜持は「最低限」としても持ち合わせておくことは必須だろう。

そして「あなたがたと、国家とか民族とか入った観念をなるべく介さずに、具体的な生活行動を通じてこそ仲良くしたい」ことを達成するためには、歴史を学び、責務を引き受けて生きていくしかないのでしょう。

このところ、修正主義的騒音が激しく、向き合うことすらままならない現状。そのことは何を意味しているのかといえば、「歴史」を否定したり修正したりしようとしなくとも、「歴史問題」を矮小化することはできるということだ。

歴史問題の矮小化とは何かといえば、「道徳的責任」だけでなく、「政治的責任」をも放擲する無責任な態度の謂いでしょう。

テーブルに付く前に、ひっくりかえして文句だけいうとかするのは自己の発言と行動に責任を引き受けて生きていく人間の取るべき態度ではない。





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