社会変革における「体育会」と「サークル」について。








今の時代はどうなのか知らないけれども、僕が大学に入学した90年代というのは、「サークル」の時代だったと思う。

テニスをするにしても「テニス部」の練習はなかなか休むことはできない。しかし「テニス・サークル」の場合……もちろん温度差はあるのでしょうが……、わりと自由に出入りできる。

規律と服従を規範とした強固な紐帯を軸にした共同体を「体育会」に代表される「○○部」に見出すとすれば、ある程度の規律は保ちながら、少し「揺るフワ」な共同体を「サークル」と分類することができるでしょう。
※勿論、傷害事件等々問題があることは存知ですが、最大公約数としてのその特色に注目しておりますので、念のため。

哲学者・鶴見俊輔(1922−)さんによれば、日本語の「サークル」という言葉は、1931年蔵原惟人(1902−1991)が全日本無産者芸術連盟(1928年結成)の機関誌『ナップ』が発刊されたおり、ロシア語から借りてきて使ったことが、その嚆矢だそうだ。

「サークル」は、当時の日本共産党の指導下にあったナップという組織の下に集まった様々な芸術家の専門集団や、工場内あるいは組合内につくられた文芸集団や芸術集団を指す言葉として使われたという。

ナップという組織自体は、1931年に解散し、新しい組織へと展開する。しかしこの後はいわゆる「冬の時代」。組織的弾圧の過程で、党の指導が届かなくなってくる。壊滅した場合もあるが、中には指導から独立して自主的に活動を展開していったサークルもあるという。都会の喫茶店文化や地方文化の特色を生かした工夫を重ねた『世界文化』や『土曜日』がその代表的な事例だ。

敗戦の後、共産党指導者たちは、もう一度運動の組織化を目論むものの、苛烈な内部闘争はサークルに対する把握を結果として緩めていくことになる。

「1960年までに、『サークル』というこの同じ言葉は、学問であれ、芸術であれ、なにかの文化活動を進める非専門家、つまりアマチュアのですね、の小集団を意味するもの」となり「共産党の指令と結びついていた連想」から離れていく。

もちろん、このサークルという運動・集団は「学問」「芸術」などの文化運動にのみ限定されるものではない。戦後の急速な産業化の矛盾に対する「異議申し立て」としての市民運動としても生成され、環境・公害・軍事をめぐって様々な運動が展開されたことはいうまでもない。特定の政党や集団に準拠しない「ゆるフワ」な市民連合が時代の変化に大きな影響を与えたことは言うまでもない。

その意味では……単純なアナロジーで正鵠を得ていないことは否定できないが……、趣味の自主的な集いや市民運動を「サークル」に、そして、綱領に基づき統御のとれた政党や宗教をのようなものを「部」ないしは「体育会」と立て分けることが可能かもしれない。

最初に見たとおり、サークルと部(体育会)にはそれぞれ長所もあれば弱点もある。何かをきちんとのばしていこうとすれば、厳しい練習と出席が必須となる「部」に軍配があがろう。しかし、長い付き合いとしてそれを楽しみ上では、「サークル」の方が優位かも知れない。

さて、鶴見さんによれば、「サークル」の「非専門家」、「アマチュア」性という特色に注目すると3つの「弱さ」が見えてくる。長くなるがそれぞれ紹介しておこう。



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 政党と結びつかないこのような自発的な運動は、それぞれの地域の中に中心をもっており、地域のなかに住んでいる人たちが、暮らしのなかからいくらかの暇を割いて問題と取り組んでいるために、自分の地域から離れてお互いに連絡をとるということはたいへんにむずかしいことです。
    −−鶴見俊輔「普通の市民と市民運動」、『戦後日本の大衆文化史』岩波現代文庫、2001年、215頁。

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一つ目は、自発的な運動ゆえの限界であろう。



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この運動は(=原水爆に反対する市民運動のこと……引用者註)自発的な、また独立したサークルから出発したのですが、それはそのもとの見方を保つことができませんでした。政党と結びつきをいったんつくってからは、もとの独立性を取り戻すということはたいへんにむずかしくなりました。
    −−鶴見俊輔「普通の市民と市民運動」、『戦後日本の大衆文化史』岩波現代文庫、2001年、216頁。

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二つ目は、即効性との関係から、政党を中心とする政治運動と連帯した場合、当初の「息吹」が失われやすいと言うこと。



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 運動がある特定の争点を中心としてつくられるときには、その争点がなくなると同時に解散します。岸内閣に対する抗議の場合には、国会を取り巻く大衆行動は、安保条約が法律上成立してこれを強行した期しない核が退陣したときという、この運動の目的からミルと、暗と明との二重の結果が見えたときに終わりました。ベトナム戦争反対の運動の場合には、ベトナムから米軍引き上げとともに終わりました。水俣病に対する抗議の場合には、この病気に苦しむ患者が残る限り、運動は終わることができません。
 争点中心の運動が大きな運動になる場合、あれほど大きな運動が、その争点がなくなってから蒸発してしまうという事実は、それを見ている人たちに、この種の運動はきわめて不安定で頼りないという印象を与えます。それは政党の運動とは性質が違っていて、状況の変化にもかかわらず存続し続けていくという形をとることができません。
    −−鶴見俊輔「普通の市民と市民運動」、『戦後日本の大衆文化史』岩波現代文庫、2001年、217頁。

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3つ目は争点中心の運動になるから「蒸発」しやすいという危惧。


では、サークルは「弱い」運動で機能することができないと考えるべきなのだろうか。
筆者はそうは思えない。もちろん、問題や対応により、強弱があるのはそれぞれの特徴だから、その強みを生かしたアプローチで問題に向き合う他はない。しかし、「強い」運動は、必ず他者に対して排他的になっていく。それにくらべると「弱い」運動は、それ自体が「おぼろげ」という弱点はあるものの、出入り自由で、「誰もが関わる」ことが可能だ。

ここはひとつの「強み」と見るべきではないだろうか。

もちろん、既存の政治運動を全否定するつもりは毛頭ない。
ただ、それだけで解決が見つからない場合が多い現状を振り返るならば、ひとつのオプションとしてその価値は、今ほど高まっている時はないと思う。
※もちろん、パイ取り運動を普遍的レースへの参与と欺瞞する“プロ”「市民」“運動”の問題は承知ですが、ここでは横において考えた。

いわゆる大文字の「政治」だけですべての問題が解決する訳ではない。
「政治」が得意として対処できる分野は確かに存在する。しかし、「政治」が不得意で対処しにくい分野というのも同じように存在する。

だとすれば、「政治」にすべてを「おまかせする」というスタイルを少しずらしてみることも必要なんじゃないかと最近実感することが多い。

特に日本人は、「政治」にすべてを「お任せ」しておけば何んとかなる……として政治を支えてきた。しかし、政治とは時間がかかるものだし、そう「忖度」した通りに「結果」が出てくるわけでもない。

だからといって「ああ、終わった」とも諦めたくはない。現状はそうなのでしょうが。

だとすれば、「政治にできること」、「政治がニガテとするもの」(そしてそれを長期的なスパンで後者が主導権をもったかたちで前者に接続させていくような試み)というたてわけも必要なのじゃないかと思う。

くどいようですが「政治、おわった」じゃないんです。
しかし、それ以外のオプションとしては「自生的」な「連帯」としての「サークル」的集合離散には意味があるのだろうと思う。

たしかにサークルには「弱さ」「実行力」等々で問題はあるとは思います。
しかし、政治が見落としがちな側面、イデオロギーや宗教によって手をつなげなかったところを架橋する側面という「強さ」はあると思うんですよね。



ただ、両者の力関係はやはり旧来の前衛−後衛的な匂いもあるから、そこだけは警戒しなければならないとも思う。


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 一九五四年のマグロの汚染が主婦たちの読書会を動かし、やがて安井郁(一九〇七−八〇)という国際法学者の助言を得て、原水爆反対の全国組織をつくるいとぐちとなり、やがて広島と長崎に国際大集会を開くまでに至ったということがありますが、これらの大集会は、それぞれちがう国家組織の時の政策を持して譲らない左翼政党の対立によって分裂しました。この運動は自発的なサークルから出発したのですが、それはそのもとの見方をたもつことができませんでした。政党との結びつきをいったんつくってからは、もとの独立性を取り戻すということはたいへんにむずかしくなりました。
    −−鶴見俊輔「普通の市民と市民運動」、『戦後日本の大衆文化史』岩波現代文庫、2001年、215−216頁。

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