次代を担う子供や青年たちに、どのような価値を引き継がせるのか、それは、本来国家の仕事ではない。





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 詳しいことは、本文にゆずるとして、問われているのは、単に宗教にとどまらず、一つの文化現象を、国家の意志にあわせて都合よく分断し、変形して怪しまれない精神そのものである。教育に対する国家の、過度ともいうべき干渉を例にあげれば、読者もすぐに納得されるであろう。次代を担う子供や青年たちに、どのような価値を引き継がせるのか、それは、本来国家の仕事ではない。市民の広範囲なコンセンサスによって決められるべきことであろう。だが、日本は、近代以来、道徳的価値にいたるまで、国家が面倒をみてきたのである。そしてそうした国家の関与を当然とする風潮が日本には存在したし、今もある。いったい、これはどうしたことなのか。
 もちろん、問題は日本に限らない。国民の統合を前提とする近代国家は、人々の生活や文化のすみずみにまで関与し、そこに国家の意志を貫徹しようとする。それは、近代国家の宿命なのかもしれない。だが、そうした国家のあり方がなにをもたらしたかは、植民地支配や戦争などから十分に学んだはずである。
 これからの人類社会は、思想、信条、信仰のちがい、あるいは、文化の相違を当然の前提とした、多元的な社会である以外には、道はない。それは、多くの人々が、歴史に学ぶことによって手にした貴重な合意である。そこでは、国家のあり方も、本質的に転換されねばならないであろう。およそ市民の生活から遊離した、国家意志などというものが独り歩きすることがあってはならないし、国家は、多元的な社会を保障するための最低限の機構に縮小されるべきであろう。資本家の側も、不当な利益を、国家という隠れ蓑を使って強引に得ることは、やめるべきであろうし、もはやそういう国家利用は、市民のゆるすところではないであろう。国家中心主義は、終焉を迎えつつあるはずなのである。
    −−阿満利麿『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証』ちくま学芸文庫、2005年、13ー14頁。

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ねむいのですこしだけ。

宗教に限らず、人間の精神に関わる現象というものは、必ず内心に留まることなく、外へと創造の翼を広げてゆくものです。

しかし、なんだろう……。

この国のひとびとは、みずから、支配を欲するといいますか、そのことによって自身の承認欲求をみたそうとする傾向が強いように思われる。

これまで国家がトータルに支配してきたということは、誤りにすぎないことは明白だし、もはや、そういう時代でもないのは事実なのだから、そのことを真正面から受け入れるべきなのではないだろうか。

まあ、そのことを受け入れるのが「コワイ」からなんでしょうけれども。

合意形成のコンセンサスというプロセスへの参加も苦手だから、国家、国家と大声をがなり立てるだけとは……、ホント、とほほのほい。