デモクラシーの理念には指導者のないことが適応している
-
-
-
- -
-
-
デモクラシーの理念には指導者のないことが適応している。プラトンがその『国家篇』(第三篇九章)で、理想国家では卓越した素質をもつ人物、天才がいかに遇せられねばならないかとの問いに対し、ソクラテスをして答えしめた言葉はまさにこの精神から発したものである。「われわれは彼を崇拝に値いし、驚嘆すべくかつまた敬愛すべき人物として尊敬するであろう。しかしわれわれは、このような人物はわれわれの国家に存在しないし、まだ存在してはならないことを彼に気づかせたのち、彼の頭をオリーブ油で塗り、花環で飾りつつーー国境の彼方へ見送るであろう。」指導者的性格をもつ人物は、理想的デモクラシーでは占めるべき場所がない。しかしデモクラシーの自由理想、支配のないこと、従って指導者のないことは、いまだかつて近似的にも実現せられたことはない。何となれば、社会的現実は支配であり、指導であるからである。
−−ケルゼン(西島芳二訳)『デモクラシーの価値と本質』岩波文庫、1966年、108頁。
-
-
-
- -
-
-
このところ物騒な発言をよく耳にする。しかもそのほとんどは、公僕と呼ばれる立場の人々から発せられるものだから、余計に驚いてしまう。、
民主主義社会においては、立法を担当する政治家にしても、行政を担当する公務員においても、ともに民主主義の主人公である主権者の「公僕」にすぎないし、日本国憲法によれば、彼らは、憲法遵守義務が課せられている。
*ちなみに日本国憲法の遵守義務は、国民には課せられていない。
さて、権力の遂行を付託された代理者にすぎない人たちの見解で最近よく耳にするものの一つが、「現行の制度に問題があるから改革しなければならない」というリードではじまる言説であろう。
そのことはよくわかる。しかしそのあとが問題である。すなわち「問題があるから、いっそうのこと、その制度やシステムまでぶっ壊してしまえ」という威勢のよい言説である。
都合よくメディアによって「ヒーロー」にされた彼、彼女たちは、最近その辺りまで踏み込み、拍手喝采を受けることが多いようだ。
問題解決に向けて、制度設計の見直しや再建は必要である。しかし、自身が立脚している最高規範や民主主義のそのものを否定する言辞は、必要ないし、そもそもそのこと自体が、主権者に対する造反行為であろう。
拍手を送りひとたちも、そして愚言を弄するエラいひとたちも、その言葉そのものを精査して欲しい。
民主主義とはそもそも、一部のエラいひとや有名人によって「指導」される制度やではない。そして代議制は、丸投げでもなければ、disりのネタでもない。
こうした基本的ルールを、相互に無視し、「やいのやいの」と床屋談義に熱を入れる結果はどうなるのだろうか。
詳しく言及するまでもあるまい。
冷静になれ!ということではない。不義に対する怒りをどのように筋道をつけていくのか。
そのことを考える必要はあると思う。そして言説空間を保障する肝を忘れてはいけない。いまは前世紀と違い総言及社会かつ炎上社会である。「毒」がまわるのは前世紀以上に早いから。