覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『読書について』=ショーペンハウアー・著」、『毎日新聞』2013年08月11日(日)付。



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今週の本棚:荒川洋治・評 『読書について』=ショーペンハウアー・著

毎日新聞 2013年08月11日 東京朝刊


 (光文社古典新訳文庫・780円)
 ◇自分の頭で考えない人のための読書哲学

 読書とは何かを知るためにはこの本しかない。これまでも、これからも。

 ドイツの哲学者ショーペンハウアー(一七八八−一八六〇)の名著『読書について』の新訳だ。訳文がいい。文字も大きく読みやすい。「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」、以上三編で構成。

 「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる」。読書は「自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない」。さらにいう。

 「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ」

 ショーペンハウアーのことばは明快。そのすべてが真実であるというしかないが、次のような一節も心に残る。「自分の頭で考える人はみな、根っこの部分で一致している」「立脚点にまったく違いがなければ、みな同じことを述べる」

 わあ、すごい。哲学というのは、そこまでもっていくのだ、ひとつもふたつも奥まで運んでいくのだということがわかる。ともかく自分の頭で考えられない人は読書などしてはならないのだ。むしろしないほうが、じかに現実に接するので、一定の知恵が保たれるというのだ。この本を読んでいくと、読書は「自分の頭で考える」ことのできる、ごく少数の人、特別な能力をそなえる人だけにゆるされるもので、そうではない人たちが少しでもかかわると、ろくでもないことになるということだ。一般読者、一般的読書の否定である。否定もだいじだと思う。本を読むことを人はこれまで肯定的にしか扱わなかった。そのために読者は自分を疑う機会を十分に与えられない。その意味でこの本のことばは、すべてに「甘い」いまのような時代にこそ向けられているのだと思う。

「書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の九割にのぼる」。また、「うわべの文学」と「真の文学」に分け、それぞれを「流失する文学」「不動の文学」といいかえる。いまは「うわべの文学」「流失する文学」だけが評価される、と。読書の最大の要点は「悪書」を読まないこと。「いつの時代も大衆に大受けする本には」手を出さないのが肝要。「人々はあらゆる時代の最良の書を読む代わりに、年がら年じゅう最新刊ばかり読み、いっぽう書き手の考えは堂々巡りし、狭い世界にとどまる。こうして時代はますます深く、みずからつくり出したぬかるみにはまっていく」。この文章が書かれたのは、およそ一七〇年前だが、現在も同じ。ぴたり、あてはまる。

 匿名の批評、言動を全否定。いまは匿名のことばが得々と画面でつぶやかれるが「愚かしくあつかましい」ことを平然とつづけている人たちはこの批判をどう受けとめるのだろうか。「著述と文体について」で分析・批判される、安易な言語表現も今日目にするものの原型である。こうしてさまざまな問題にふれる。人の生き方にも及ぶ。途方もないひろがりと、深みがあるのだ。読書を見れば、人間と社会のすべてがわかる。それがこの古典の視点である。

 いまは一般読者が支配。本らしい本を読む人は少ない。読書が消えた時代だ。静かだ。読書とは何かを「考える」ときなのかもしれない。この本を読みながら、そう思った。(鈴木芳子訳)
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『読書について』=ショーペンハウアー・著」、『毎日新聞』2013年08月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130811ddm015070039000c.html


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