覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『チーズと文明』=ポール・キンステッド著」、『毎日新聞』2013年09月22日(日)付。

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今週の本棚:本村凌二・評 『チーズと文明』=ポール・キンステッド著
毎日新聞 2013年09月22日 東京朝刊


 (築地書館・2940円)

 ◇曲折した九千年の足跡をたどる

 若いころの記憶では、チーズなんか少しも美味(おい)しくなかった。なにかしら石鹸(せっけん)でもかじらされているようで、もう一口くださいなどと言う気にはとてもならなかった。

 ところが、バブル経済期に海外旅行がしやすくなったせいだろうか、やたら味わい深いチーズを口にする機会がふえたように思う。それにつれて、欧米やオセアニア産の良質なチーズが輸入されるようになったのだろう。

 歴史を遡(さかのぼ)れば、それもそのはず。わが国土では一世紀余りのチーズ製造歴しかないのに、地中海世界ではかれこれ九千年近い年月が流れているのだから。

 本書は、多種多様なチーズがどのような外界の変化に応じて生まれてきたかを解き明かしながら、西洋文明史のなかでチーズの歴史が刻んだ曲がりくねった足跡をたどる試みである。

 ある民話によれば、羊の胃袋で作った水筒にミルクを入れて牧夫が旅をしていたとき、ミルクが固まったのがチーズの始まりという。だが、これは神話のような伝説にすぎない。

 というのは、ミルクを消化するにはラクターゼが必要だが、かつては成人するにつれこの酵素は生成されなくなっていった。だから、そもそも大人はミルクを飲むことなどほとんどなかった。飲めば下痢などの症状がひどかったからだ。何かのきっかけでミルクが凝固したとき、それを食した成人でもミルクを飲んだときの症状がないことに気づくようになったらしい。今日、冷たい牛乳を飲める人々はラクターゼ生成能力を遺伝的に獲得しているからだという。評者はそれを獲得していないのが、いささか残念でならない。

 メソポタミアの女神イナンナは、農夫が捧(ささ)げるパンや豆類などに比べて、牧夫がもたらすヨーグルトやチーズなどがどんなに恵みがあるか、という主張にほだされて牧夫と結婚したという。

 前千二百年ころの東地中海では、楔形(くさびがた)文字の粘土板文書に、船の積み荷のチーズが受領されたという記録がある。保存用・輸送用の容器があり、チーズが遠距離海上交易で運ばれていたのだ。地中海各地をさまようオデュッセウスシチリア島に到着すると、洞窟のなかで整然としたチーズ作りの作業に感服してしまう。のちにシチリア産チーズは広く知られ、あちこちで模倣されたらしい。

 ローマ時代になると大型のチーズが出現する。加熱調理と高圧圧搾の処理法が開発され、大量の凝乳(ぎょうにゅう)(カード)を作るチーズ工場すらあったほどだ。

 温暖な地中海地方を離れて寒冷なヨーロッパ北西部に来ると、搾ったミルクは一晩以上も長く保存できる。やがて効率よく作業する中世の荘園では、「乳搾り女」のような職種も出てきた。「“乳搾り女”は誠実で、評判がよく、清潔でなければならない」という。

 近代になると、イングランドのチェダーチーズとオランダのゴーダチーズが浮上する。まるで植民地覇権の争いのようだったが、市場では酸味の低く甘い風味のゴーダチーズが大きな成功をおさめる。工業化も技術力も専門性もオランダは最も進んだチーズ生産国なのだ。

 19世紀半ばから始まるチーズ生産の工業化は、百年足らずで農場作りのチーズを駆逐してしまった。だが、昨今、伝統製法のチーズが再評価されつつあり、喜ばしいことである。

 チーズの味わい方は人によりけりだろう。がいして赤ワインのおつまみに合う。だが、日本人には和食になじむ白ワイン向きのチーズもあるはずだ。それを見つけるのが文明の楽しみ方かもしれない。(和田佐規子訳)
    −−「今週の本棚:本村凌二・評 『チーズと文明』=ポール・キンステッド著」、『毎日新聞』2013年09月22日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130922ddm015070020000c.html




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