覚え書:「今週の本棚:伊東光晴・評 『戦後歴程−平和憲法を持つ国の経済人として』=品川正治・著」、『毎日新聞』2013年10月27日(日)付。
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今週の本棚:伊東光晴・評 『戦後歴程−平和憲法を持つ国の経済人として』=品川正治・著
毎日新聞 2013年10月27日 東京朝刊
(岩波書店・1890円)
◇“もう一つの国”を求めた実業人を悼む
“もう一つの日本”を求め続け、8月に亡くなった一実業人(元日本火災海上保険会長、元経済同友会専務理事)の自伝である。
本土決戦も叫ばれていた1944年の2月、旧制三高の軍事教練の仕上げともいうべき、師団長の査閲の時に一つの事件がおこった。
中学からの友人が時流に抗する、軍人勅諭の読み替えを行ったのである。査閲は中止となり、生徒総代であった著者は、事を収めるため、退学し、一兵卒となり、中国洛陽(らくよう)の最前線へ送られる。死地である。
本書の副題は「平和憲法を持つ国の経済人として」とあるが、この戦地での悲惨な体験が、その信念となる。助けを求め死んでいった戦友の声は今も消えない。氏自身も迫撃砲で吹きとばされる。それらが、復員船の中で見た“平和憲法”に共感の激情となる。
敗戦直後の激動の時代に東大法学部に進み、学生結婚するが、これもドラマである。妻になる静さんは、父の遠縁の人で、すでに3人の子供があり、夫は大蔵官僚、父は銀行家で、著者はその家の離れに下宿していた。静さんは何不自由ない生活から、激変する生活を選ぶのであるが、二人を近づけたのは、静さんの、働く人たちへの思いである。
著者の親子関係は断絶するが、それ以後の二人は、ともに労働学校で学ぶなど、もう一つの日本を求めて互いに助け合っていく。この結婚のくだりが、私には垣添忠生・国立がんセンター名誉総長の結婚とその後の生活を思いださせる。垣添さんは26歳の時、12歳年上の離婚状態にある病弱な患者さんと結婚する(垣添忠生『妻を看取(みと)る日』新潮社)。
垣添さんはすでに研修医であったが、著者は学生であり、住む家から探さねばならない。
生活費をどうするか。
学生でありながら中学の社会科の教師になって収入をえる。一年で卒業までの全単位をとろうとして、同じ時間の試験の科目を二つもとるという離れ技にはびっくりする。それを知った日本火災海上の人事担当者から入社をすすめられる。
入社後は仕事と労働組合の活動に熱心に取りくむ。仕事でも組合でも、企業の社会的責任を推し進めていく。それは、経営のトップになっても変わることはない。それが大塚万丈から木川田一隆に続く、新しい資本主義を求める同友会の流れの継承者として、著者に同友会専務理事の仕事を委ねさせたのであろう。それはアメリカ的経営−−株主のための会社という考えを否定させ、顧客、従業員、地域社会をも重視する会社とリベラルな社会的発言となっていくのである。
私は自著『保守と革新の日本的構造』(筑摩書房)の中で、経営者も組合幹部も同一の階層から出る戦後日本社会の特徴を指摘した。氏はその一例である。と同時に氏の旧制高校的交友関係と教養の深さに驚いた。
西ドイツの首相だったシュミット氏の大学卒業論文が「米軍占領時代の日本の税制」だったことは、この本で知った。また社長になると、シュミット氏を招いて社内講演会を試みている。サッチャー、レーガン、中曽根氏に抗してである。
静さんが残してきた子供たちが、成人して、しばしば晩年の静さんを訪れているのに、ほっとする。
静さんを失ってから、一人息子とその妻にも先立たれた不幸の中で孫を育てる。静さんをこれだけ愛した人の再婚と同友会での活躍が、病のため書かれなかったことが惜しまれる。
−−「今週の本棚:伊東光晴・評 『戦後歴程−平和憲法を持つ国の経済人として』=品川正治・著」、『毎日新聞』2013年10月27日(日)付。
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http://mainichi.jp/feature/news/20131027ddm015070009000c.html