覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『小林秀雄 学生との対話』=国民文化研究会、新潮社・編」、『毎日新聞』2014年05月04日(日)付。
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今週の本棚:堀江敏幸・評 『小林秀雄 学生との対話』=国民文化研究会、新潮社・編
毎日新聞 2014年05月04日 東京朝刊
(新潮社・1404円)
◇本質を衝く、さりげない殺し文句
話の入りはなんとなくよたよたして、口跡もあまり明瞭とは言えない感じだから、大丈夫かなと心配していると、どうでもよさそうな世間話が少しずつ大きな主題に吸収され、抑揚も間の取り方もしっかりしてきて、いつのまにか背筋を伸ばして聞かざるをえない、みごとな芸になっている。
音声として残されている小林秀雄の講演は、落語家のように−−実際、彼は志ん生の語りから多くを学んでいた−−枕から下げに至るまで計算され、しかも自然体で脱力しているように見せかけたひとつの作品として楽しめるものだが、没後三十年を記念して刊行された、若い学生たちを前にしての語りと質疑応答の記録は、他では見られないほど、まっすぐで熱い言葉に満ちあふれている。
国民文化研究会および大学教官有志協議会主催による「全国学生青年合宿教室」の講師として、小林秀雄が八月の暑い日々に九州へと赴いたのは、昭和三十六年から五十三年までの計五回。残された声も、別売りのCDで聴くことができる。
ただし、記録という言い方は正確ではない。小林秀雄は話し言葉をそのまま活字にすることを許さなかったからだ。じつは、録音も厳禁だった。速記を起こし、書き言葉として鍛え直したものしか表に出さなかった。音声記録は、周囲の情熱がそうさせた極秘の録音に基づいているのだが、おかげで彼が生の語りを文字に起こす際、どこをどう削り落とし、なにを付け足していったかも追うことができるようになった。
それだけではない。本書で明らかにされているのは、小林秀雄がいかに対話を大切にし、自身の肥やしにしていたかという事実である。ことに昭和四十九年になされた「信ずることと考えること」は、校閲を経た講義録では「信ずることと知ること」と改題され、五十一年にもう一度、今度は東京で講演をして、その起こしが決定稿となっている。当時話題になっていた超能力者ユリ・ゲラーからはじまり、ベルグソンを経て柳田國男に移行するアクロバティックな展開に具体例が加えられ、全体がもうひとつ高い書き言葉のレベルに引き上げられている。
殺し文句をさりげなく口にしながら、彼は本質を衝(つ)く。本居宣長の言う「やまとだましひ」が頭でっかちな「才(ざえ)」と対立する、いわば人間性の機微を理解する生きた知恵に他ならないこと、「もののあはれ」とは湿った情緒ではなく、そのような英知を持ってさかしらな言動に抗(あらが)うために必須の武器であること。「信ずるということは、責任を取ること」、「考える」とは他者と身を交えることであり、考えるためには情理を兼ね備えた強い(・・)想像力が求められること。
学生たちは、この想像力を現場で試さなければならなかった。何でも聞いてくれと言いながら、どんな質問にも答えるわけではない、「うまく質問してください」と講師は真剣に問いかける。質問するということはじつに難しい。「本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ」。そして、答えを出すことは不可能でも、「正しく訊(き)くことはできる」のだとも彼は言う。問いの「質」を鋭く指摘しつつ、辛抱強く、やさしく対話を重ね、頭ごなしにやっつけたりはしなかった。
もうひとつ、一連のやりとりを特徴づけるのは、「褒めること」としての批評である。「人を褒めることは、必ず創作につながる」。一方通行に終わらないこれらの講演こそ、まぎれもない創作であり、渾身(こんしん)の批評だったのである。
−−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『小林秀雄 学生との対話』=国民文化研究会、新潮社・編」、『毎日新聞』2014年05月04日(日)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/20140504ddm015070017000c.html