覚え書:「今週の本棚:鼎談書評 短歌・俳句・詩 評者・小島ゆかり、坪内稔典、堀江敏幸」、『毎日新聞」2014年06月29日(日)付。
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今週の本棚:鼎談書評 短歌・俳句・詩 評者・小島ゆかり、坪内稔典、堀江敏幸
毎日新聞 2014年06月29日 東京朝刊
◇評者・小島ゆかり(歌人) 坪内稔典(俳人) 堀江敏幸(作家)
◆『老いの歌−新しく生きる時間へ』 小高賢・著(岩波新書・756円)
◇「私」突き抜けた理想形−−推薦・小島氏
小島 私が持ってきたのは、2011年に出された小高賢(こだかけん)さんの新書です。著者は悲しいことに今年2月に急逝されました。この中には素晴らしい発信があるので、著者が亡くなって、この発信が途切れるのは惜しい。
著者は、老年は現代短歌のフロンティアだと言っています。近代歌人たちは短命でした。北原白秋は50代、石川啄木は20代、大きな仕事をたくさんした正岡子規も30代で亡くなっています。
今さまざまなレベルで80、90代の方が元気に歌を作っている光景は、近代から見れば仰天するようなものでしょう。しかも、豊かな世界が開けていて、今後の可能性が示唆されている。
短歌の詩形は恐るべき生命力を持っています。『万葉集』に5世紀前半の仁徳天皇の皇后の作とされる歌があります。それから、2014年まで粘り強く生き延び、ここ数年、現代短歌の主だった新人賞は10、20代の人が受賞しています。過去に何度も滅亡論がささやかれ、叫ばれましたが、そこを近代という青春の歌で突破したり、第二芸術論の時には前衛短歌が突破口を開いたり。そして今の停滞感のある中で小高さんは、老年というフロンティアがそこを開いていく可能性がある、と言っているんですね。
坪内 僕は小高さんと同い年(70歳)で、干支(えと)にちなんで「申(さる)の会」を一緒にやっていましたが、彼はやっぱり短歌なのだなと思う。短歌は年を取っても「私」が絶対的。僕は70、80歳にもなって、「私」を見つめるなんて嫌な方なんですね。俳句は短歌に比べて、でたらめなもんだと思っているんですよ。だから短歌は、この生真面目さが一つの伝統だと思うんですよ。老いの歌が短歌の新しい世界だという考えは分からないことはないですが、まだ「私」なのかという思いがある。ここは著者と議論したかったところなんですよ。
小島 短歌の「私」というのは、外から見るよりずっと自由です。
坪内 「私」というのがなくなってもいいんですか。
小島 最終的にはなくなるだろうと思います。「私が悲しい」というのは、まだ小さい、狭い「私」であって、そこを突き抜けた時に「なんでもいいじゃないか」というところまで出ていくのが理想です。常識的な「私」ではなく、自在無碍(むげ)の「私」とでも言いましょうか。
要介護と要支援の人、それから介護している人だけが作品を出す短歌大会があります。全国的に広がっていて、最初は指を折りながら作っている短歌初心者の人が、そのうちに決して私たちにはできないとんでもなく面白い作品を作り出すんですね。100歳ぐらいの人が1位になることもあるような大会です。
堀江 老いの歌には、未知の、まだ人類がたどり着いたことのない、深海に向かっているようなところがありますよね。だから浮遊感と大変な水圧を同時に感じます。自分の若い気持ちと若くない体にズレが生じた時、2人の自分がぶつかって、そこに何とも言えない惚(ほう)けたような空間が生まれる、と。その真空状態のような「私」は、全然別のものが入り込んでくる隙間(すきま)になるような気がするんです。そうすると斎藤茂吉の晩年のよく分からない歌も、とてもシュールなものになってくる。短歌を続けていくと、「私」が自分の中で変わっていくのが観測できるはず。そこが面白いんじゃないかと思うんです。
◇もっとでたらめに−−坪内氏
坪内 短歌の人って僕の偏見ではやっぱり正しい人たちです。考え方が前向きで、それが老いの歌に向かう時にもある。もっとでたらめになってもいいんじゃないかと思う。一度、歌人と俳人たちが同じ場所で一緒に俳句を作ったことがあるんですが、歌人たちは壁を向いたり、庭に出たり、一人の世界に入って作るんですね。俳人はそのまま話をしながら作るんですよ。そこがものすごく違うのかも。
小島 すごくよく分かる。そうかもしれないですね(笑い)。
◆『小林一茶−句による評伝』 金子兜太・著(岩波現代文庫・929円)
◇五七五は時代超える−−推薦・坪内氏
坪内 これは約40年前に出た本ですが、今読んでも面白い。俳句の世界では小林一茶や松尾芭蕉、与謝蕪村を過去の人という感覚ではなく、身近に感じている。それに五七五だし、使われている言葉も独語で分かりやすく、時代の隔たりがない。
3人の中で芭蕉が雅と俗のバランスが一番いい江戸時代的な俳人。蕪村は雅に少し傾斜した人。そして、俗の要素をもっとも発揮しつづけた人がこの一茶だと思うんですよね。だから、俳句が表現の魅力を失った時は一茶的なエネルギーでかき回した方がいいんじゃないかと思う。「一村の鼾(いびき)盛りや行行(ぎゃうぎゃう)し」という葭切(よしきり)(葦雀)を詠んだ句がある。これについて著者は「ぐうぐうすうすう昼寝の村。葭切どんはギョギョシギョギョシ、ギョッギョッ。いざや信濃の真昼間(まっぴるま)」と詩にしています。
小島 これ、歌えそうですよね(笑い)。
坪内 村中が昼寝していて、それに合わせて葭切が鳴いているという平和そのものの風景ですが、こういう風景の切り取り方は五七五の表現の中では新鮮です。そういう意味で五七五は時代を簡単に超えてしまうところがあると、著者は一茶を読んでいるのだと思います。どちらかというと俳句の世界では芭蕉や蕪村が上で、一茶が一番下というランク付けがあって、それは俗なものが下になるということなんですが、俳句という詩形では、やっぱり俗なものを持っていることが一つの存在理由としてあるので、一茶を金子兜太(とうた)流に読み直した本は、俳句について考えさせてくれると思います。
◇説明も完璧な作品−−堀江氏
堀江 一茶の句の後に説明も含めた口語訳があるんですけど、これが一つの完璧な作品になっている。金子さんの句の世界も同時に込められているんです。
この部分の凄(すご)みは、エネルギーですよね。一茶と金子さんの二つの力が衝突すると、こうなるんだと。小さな爆発が起こっているような感じですが、でも爆発して全部散ってしまうのではなくて、二つが爆発している様子が遠くから見られるように書いてある。見事だなと思いました。
僕らの世代(1960年代)は、一茶の句は単体でしか教わっていない。こんな含みや背景、文脈で詠まれたことを知っているのとそうでないのとでは、味わいが全然違う。それがよく分かりました。やっぱりこれは全部読みたくなりますね。句だけ抜くのと、その前にある言葉を引いて詠むことの差ですね。特に遅い結婚の後の激しい感じ(笑い)。まさに「老いのフロンティア」に先んじて、足を踏み入れていたことが分かる。
小島 「春風や鼠(ねずみ)のなめる角田川(すみだがわ)」の句で、ネズミのなめる音にすごい暗さをまず感じている。一方、途中で「そんなの過剰だよ、これは老荘の取り込みだよ」と言っていて、「いやーな、生ぐさい感じ。それが忘れられないな」ともう一回言うんですよね。こういうところにも背景を同時に読者に読ませることで暗示する感じ、意訳のうまさと鑑賞の対話のうまさが両方あると思いますね。実に面白い本だと思います。
坪内 加藤楸邨(しゅうそん)の80代の俳句で、「天の川わたるお多福豆一列」というのがあります。マンガみたいな俳句ですが、作者は全然違うことを言っていて、奥さんを亡くした後の俳句なので、多分作者が描いていたのはお多福豆のような奥さんの仲間たちがあの世に行っている風景だったと思うんですね。だけど、読む人は全然そんなこと知らないから笑っちゃう。そういうところが俳句は面白いと思うんですね。
◆『現代詩文庫 田原 詩集』 田原・著(思潮社・1404円)
◇硬軟、バランスに魅力−−推薦・堀江氏
堀江 田原(ティエンユアン)さんは26歳で来日して日本語を勉強し、詩集『石の記憶』(09年)で日本語を母語としない中国人としては初めてH氏賞を受賞しました。本書には中国語で書いた詩の日本語訳もあって、構成が面白いですね。田原さんは谷川俊太郎さんの詩の中国語訳をすることで優れた日本語を吸収したわけですが、その結果生まれた日本語には谷川作品に潜む、硬い木の実の核が引き出されている感じがします。湿り気がなく、大陸のような風が吹いている。『石の記憶』にはひんやりした石の死のイメージがある一方、関わりのあった女性の甘酸っぱさもあって、硬軟のバランスも魅力的です。
小島 「海の顔」の詩が一番好きです。日本語なのに、中に流れる血が大陸的です。直喩がすごい。
坪内 正直言って、面白さがスッと分かりません。僕は海辺で育ったので、海は大きすぎて顔がないのです。全体にあまり心動かされないというか、言葉がしっくり伝わってこない感じがある。大半の詩に音がないのです。「二階の娘」という詩は、2階に住む娘さんに階下の男が妄想を膨らませるのですが、どこか論理というか、伝えたい事柄が先に来るような感じがしました。
堀江 おっしゃる通りです。ただ、手探りで日本語を始めた方の、いびつなところがとてもいい。音がないというより、1行、2行の中に、音が響かないように詰め込まれている。石を積み上げるような書き方で、響きを吸収してしまっているというか。
◇日本語の「隙間」ない−−小島氏
小島 短歌や俳句といった短詩では、音は呼吸のようなもの。音の中には常に隙間があって、その呼吸を含めた音が作品にはとても重要です。伝統を含めた日本的なものですが、それはない。
堀江 田原さんの詩には雑音がないとも言えます。外国語の隙間を知って、ノイズを出すのは難しいと思います。意識的に音を閉じ込めたのか、音を出せなかったのか。ギリギリのところに魅力があります。
小島 でも、中国語で書いた詩の日本語訳の方がもっとお行儀がいいですね。日本語で書いたものの方がエネルギーがあります。
坪内 「わが娘に」は、普段は詩を読まない者にでも分かる言葉で書かれています。「娘よ/あらゆる子供たちが君のようであれば/世界はなんとすばらしいだろう」。このストレートさは何でしょうか。
堀江 自分の子供は絶対に石にならない存在ですよね。音を閉じ込める必要はないわけです。素直に歌えばいい。また、亡き友人にささげる挽歌(ばんか)を読むと、固い表現がありますが、一気に書いた感じがある。構えていない詩ではないと思いますが、やはり詩人の仕事でしょう。
坪内 「梅雨」という詩は、俳句の季語が持っている約束の世界からすると、おどろおどろしくて「アッ」という感じがあります。1行目「垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡(ぬ)れない」という表現は分からないのですが。
小島 季節の言葉で言うと、「風を抱く人」という詩の「彼はかつて中国大地でゆらゆらと揺れた紫陽花(あじさい)だ」という表現に力を感じ、揺さぶられました。大きな刺激を与えられました。
堀江 中国の大地ではアジサイは小さく見えるはずなのに、大きく見えるというところですね。
小島 中国大地のアジサイなのに、明らかに私の知っているアジサイの量感が見えてきます。
堀江 田原さんの詩を読むと、日本語を中国で使うとこういうふうに相対化できるのだと思わされます。「晩鐘」には「いま 私はその鬱陶(うっとう)しい響きの中で老けてゆく」とある。この感覚、僕にもありますね。
小島 坪内さんみたいに、おおらかに老けていきたいものですが。
堀江 とてもたどりつけません(笑い)。ごつごつしたものの一部は、いずれ均(なら)されてしまうかもしれません。しかし日本語で真摯(しんし)に表現する人の作品を同時代に読めるのは、幸せなことだと思います。
−−「今週の本棚:鼎談書評 短歌・俳句・詩 評者・小島ゆかり、坪内稔典、堀江敏幸」、『毎日新聞」2014年06月29日(日)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/20140629ddm015070013000c.html