覚え書:「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『失われた近代を求めて3 明治二十年代の作家達』=橋本治・著」、『毎日新聞』2014年11月16日(日)付。

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今週の本棚:橋爪大三郎・評 『失われた近代を求めて3 明治二十年代の作家達』=橋本治・著
毎日新聞 2014年11月16日 東京朝刊


 ◇『失われた近代を求めて3 明治二十年代の作家達』

 (朝日新聞出版・2700円)

 ◇定番の作家たちが肉声で語りだす、驚き

 作品の読み手として橋本治氏が怖いのは、創作の秘密の奥深くにずかずか入り込み、作者の無意識まで白昼にさらしてしまうことである。橋本氏は常識やどんな通念にも頼らないで、自分の理解できたことしか理解したとしない決然たる倫理を貫くから、これができる。

 『明治二十年代の作家達』は、日本の近代文学の成立を描く三冊シリーズの完結編。二葉亭四迷田山花袋森鴎外島崎藤村国木田独歩、に続けて、本冊では、夏目漱石→北村透谷→正岡子規尾崎紅葉幸田露伴、を取り上げる。語り尽くされたはずの定番の作家たちが、セピア色の写真を抜け出して肉声で語りだすような、驚きがある。

 近代と遭遇した明治の文学者たちは、何をどう語り始めたのか。三冊を通して追ってみよう。

 補助線は、文体である。四迷『浮雲』が試みた言文一致体は、はるか遠く慈円の『愚管抄』に淵源(えんげん)をもつとする。漢字かな混じり文が確立したのは『徒然草』だとかつて指摘した、橋本氏ならではの慧眼(けいがん)だ。だが四迷の試みは頓挫した。代わって文語体隆盛の明治二十年代が続く。

 それから本格的に興るのが、自然主義の文学である。花袋『蒲団(ふとん)』と藤村『破戒』はどこが「自然」主義なのか。西欧の「自然」は、人間がじつはこう造られているという真実のことで、キリスト教に対抗するという意味があった。『蒲団』や『破戒』の主人公は、言いたいのに「言えない」と苦悩する。「言えない」理由が描かれていない。近代の教育を受け恋愛も自由になったが、他者の内部に届く視線を持てず、実は恋愛できないからではないか。文語体は完成していて、豊かな叙述のなかで書く主体は消えている。完成途上の言文一致体は、どうしても語る作者が文中に現れ、容易に私小説へと転態してしまうのである。

 そこで3が扱うのが、北村透谷。さらには尾崎紅葉幸田露伴夏目漱石である。自由民権運動から脱落した十代の透谷は遊廓(ゆうかく)に溺れ、その後クリスチャンの妻と結婚、受洗した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」と説く透谷は、紅葉の『おぼろ舟』を読み涙する。武家の娘、藤は、母との生活を支えようと妾(めかけ)奉公を決意し、ハンサムな男に囲われるが、男は不実ですぐ来なくなる。藤は男を思って焦がれ死にする。この作品のどこが透谷を捉えたのか。粋(本気で惚(ほ)れない遊廓のルール)と恋愛(真実の愛)は相いれない。すれ違う前近代と近代のはざまに宿る純粋さに、透谷は身悶(みもだ)えたのだ。

 粋と並ぶのが〓(おとこぎ)である。露伴の傑作『五重塔』では、大工ののっそり十兵衛が五重塔の普請を見事にやりとげる。大嵐の晩、塔はびくともするものかと家にいた十兵衛は、和尚が心配していると嘘(うそ)を言われ呼び出される。信頼する和尚に見くびられた怒りと哀(かな)しみを胸に、嵐のなかすっくと塔上に立つ十兵衛の〓。描写は、自然とはほど遠い文語体だが、人びとの群像を相互に照射しめいめいの人格を掘り下げる深度をそなえている。

 夏目漱石は、好きな漢学をあきらめ、生活のために英語を選んだ。文系の学問を学ぶほど人びとは近代に染まり、醜悪な姿をさらす。それを傍観者(猫や坊ちゃん)として、まず横から眺めてみた。しかし時代の真実を描くには、当事者として作品に内在しなければならない。

 そこで登場するのが「男性を翻弄(ほんろう)するわけの分からない女」だと、橋本氏は指摘する。三四郎は上京する車中で人妻と隣り合わせ、行きがかりでひとつ部屋に同宿する。なにもなかった翌朝の別れ際、度胸のない方ですねと言い置いて、女は去る。ストレイシープの謎をかける美〓子(みねこ)は、この女を思い出させる。それは彼女らが「近代の衣装を着た昔ながらの前近代の女」だからである。いっぽう近代とどう折り合いをつけるかで、悩み苦しむ男たち。

 文体、作品のプロット、テーマ。橋本氏は明治の作家たちの、創作の秘密や心のひだに分け入って、その群像をひとつの運動の渦として描き出す。言文一致体/江戸戯作(げさく)以来の文語体。自然主義/それから超然とする作風。これまでばらばらに扱われてきたものが、同時代の磁場のなかで有機的に関連づけられる。作家と作家の相互関係が甦(よみがえ)り、現代の作家たちを見るような新鮮な彼らの躍動が伝わってくる。

 なぜ「失われた近代を求めて」なのか。文学をやりたい明治の若者たちは、精一杯背伸びをし、生真面目に、西洋にあるのと同じ近代を、作品のかたちで実現しようとした。そのやり直しの効かない試行錯誤の軌跡が、明治文学である。過去の歴史は動かないと見えるから、ついそこから受動的に学びたくなる。それでは、近代と向き合った当事者のリアリティが失われてしまう。

 橋本治氏の仕事のサイズは、文学よりずっと大きい。日本語を用い、人びとはどういう思考と経験を重ねてきたのか。フーコーウェーバーにも匹敵するその力わざのスケールに、感嘆を禁じえない。
    ーー「今週の本棚:橋爪大三郎・評 『失われた近代を求めて3 明治二十年代の作家達』=橋本治・著」、『毎日新聞』2014年11月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141116ddm015070040000c.html






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