覚え書:「今週の本棚:中島岳志・評 『言論抑圧−矢内原事件の構図』=将基面貴巳・著」、『毎日新聞』2014年12月14日(日)付。

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今週の本棚:中島岳志・評 『言論抑圧−矢内原事件の構図』=将基面貴巳・著
毎日新聞 2014年12月14日 東京朝刊

 ◆将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)・著

 (中公新書・907円)

 ◇80年前の事件から「いま」を確認する

 慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者・植村隆氏へのバッシングが続いている。植村氏は、赴任予定だった神戸松蔭女子学院大学から教授ポストの辞退に追い込まれ、現在は非常勤講師を務める北星学園大学で雇い止めの瀬戸際に立たされている。現政権は脅迫への積極的な批判や対策に乗り出さず、一方で朝日新聞叩(たた)きに加勢する。

 右派からの苛烈な攻撃と過剰反応する大学。そして、権力からのプレッシャー。歴史を想起すれば、1930年代に相次いだ言論抑圧事件が脳裏をよぎる。37年の矢内原(やないはら)事件はよく知られるが、詳細を把握する者はなかなかいない。本書は事件に関与した人物・機関を徹底的に洗い出し、複雑な構図を明快に読み解く。

 この事件の当事者・矢内原忠雄東京帝国大学経済学部で教鞭(きょうべん)をとった経済学者である。専門は植民政策論で著書『帝国主義下の台湾』が代表作として知られる。内村鑑三新渡戸稲造を師と仰ぎ、自らも無教会主義に連なるキリスト教徒だった。

 そんな矢内原が騒動に巻き込まれるきっかけとなったのが、『中央公論』37年9月号に掲載された「国家の理想」という論考である。彼は自らが理想とする国家像から、現状の国家を鋭く批判した。当時は日中戦争勃発の直後で、戦火の拡大が懸念されていた。

 矢内原は前年から極右勢力による攻撃を受けていた。その中心となったのが雑誌『原理日本』の編集人、蓑田胸喜(みのだむねき)である。蓑田は矢内原の進化論に基づく発展的秩序観を批判し、国体論を軽視する姿勢を「エセ・クリスチャン」と非難した。

 一方で、出版界は当局による組織的な言論抑圧を受けていた。編集者たちは「発禁」すれすれの出版を繰り返し、言論の自由を守ろうとした。しかし、日中戦争勃発により出版統制は強化され、編集への介入が相次いだ。

 矢内原の論考が掲載された『中央公論』9月号も、発行直後に同論考が削除処分となった。矢内原はますます日本の現状への批判を強め、講演では「我が日本、我が日本の理想の告別式でございます」と気を吐いた。この前後から、彼の周りには言論を監視する警察官の姿が目立つようになる。

 これに過剰反応したのが、東京帝国大学経済学部長の土方成美(ひじかたせいび)だった。彼は矢内原とそりが合わず、学部内で対立していた。実権を握る土方に対して、矢内原は非主流の少数派だった。土方は教授会で矢内原の論考を問題視し、同僚教員に意見を求めた。

 内紛によって混乱する経済学部に対して、総長の長与又郎は穏便な解決を求めた。彼は矢内原に対して表現が不十分だったことを詫(わ)びる「陳謝状」の提出を要求し、円満解決を図った。

 矢内原はこれに応じ、「陳謝状」を提出。事態は一件落着したかに見えた。しかし、である。長与総長が文部大臣・木戸幸一と面会すると、矢内原辞職の決定を促された。木戸文部相は議会での追及を恐れ、総長に圧力をかけたのである。

 長与総長はこれによって態度を一変させ、矢内原辞職を即決した。矢内原はやむなくこれに応じ、東京帝大を追われることとなった。矢内原は最終講義を次の言葉で締めくくった。「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように……」

 本書は約80年前の事件を取り上げながら、現代日本を突き刺している。我々は歴史を振り返ることで「いま」を客体化し、立っている場所を確認しなければならない。必読の書だ。
    −−「今週の本棚:中島岳志・評 『言論抑圧−矢内原事件の構図』=将基面貴巳・著」、『毎日新聞』2014年12月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/m20141214ddm015070046000c.html






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