覚え書:「戦後70年これまで・これから:第1回 ドイツはどう隣国の信頼を得てきたか(その1)」、『毎日新聞』2014年12月29日(月)付。

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戦後70年これまで・これから:第1回 ドイツはどう隣国の信頼を得てきたか(その1)
毎日新聞 2014年12月29日 東京朝刊



和解努力、重ねた独 紛争地へ武器「近隣国が信任」
 ■役割と国益、にらみ 歴史への視線、共有

 ◆不戦のための統合

 再び戦争を引き起こさないために、戦後の欧州は「統合」への道を選んだ。肝心の独仏和解の陰には、英国の後押しや首脳同士の不戦の誓いに加え、民間レベルでの幅広い交流や共に過去を見つめる努力があった。【ベルリン篠田航一、パリ宮川裕章】

 ドイツ(西独)の力を「封じ込める」意味で重要だったのが、19世紀以降に独仏の争いの原因となった「資源」の共同管理だ。フランスの提案に基づき、西欧6カ国が1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立。これが欧州連合(EU)の礎となる。

 「私は今も、チャーチル元英首相の46年の演説を思い出す。独仏が共に歩むことを提案し、EUの基になる構想を強調してくれた。戦争を体験した私の世代にとって、二度と戦争を起こさないための『統合』こそが、戦後欧州の最大の目標だった」

 2011年12月、ベルリンで毎日新聞の取材に応じたリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元大統領(94)は、独仏和解の実現には、両者を積極的に結び付けた英国の後押しも大きかったとの見方を示した。和解の原点は「何としても戦争を起こさない」との決意だった。

 ワイツゼッカー氏は85年の戦後40年式典で「過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる」との有名な演説を行い、歴史を直視する重要性を説いたことで知られる。

 70年にワルシャワユダヤ人ゲットーの記念碑前でひざまずき、謝罪の意を表したブラント西独首相。84年に第一次大戦の激戦地だった仏北東部ベルダンを訪れ、2人で手をつないで戦死者を追悼したコール西独首相とミッテラン仏大統領。こうした印象的シーンがカメラを通じて流され、両国民の間で和解ムードが高まった面もある。

 両国の民間レベルの交流は、63年の独仏友好条約(エリゼ条約)を機に本格化。パリ政治学院のアンヌマリ・ルグロアネック教授(独仏関係)は、信頼醸成には「独仏青少年事務所の開設による青少年の相互交流が大きな役割を果たした」と指摘する。事務所の運営には両政府が出資。約820万人の若者が双方の家庭に滞在するなどした。

 独仏の歴史学者らが作成した共通歴史教科書も、歴史認識の共有化に寄与した。03年のエリゼ条約40周年式典に参加した両国の高校生が提案。当時のシラク仏大統領とシュレーダー独首相が賛同し、06年の発行につながった。仏ボルドー教育委員会の11年の調査では、使用する75校の高校生の7割が「ドイツの理解に役立った」と回答。メルケル独首相も「真の歴史的新機軸だ」と高く評価した。

 駐仏ドイツ大使館と仏IFOP社が12年に実施した世論調査によると、フランス国民の8割以上はドイツに好印象を持っていると回答している。

 ◆虐殺の村で慰霊

 ◇解けた心

 「あなたが両国の和解のために手を差し伸べてくれたことに心から感謝します」−−。

 11月20日、フランス中西部の県都リモージュ。ドイツ政府からの功労勲章授与式に参列したゲルダ・ハッセルフェルト連邦議会議員(64)の視線の先には、近郊のオラドゥール村のレイモン・フリュジエ前村長(74)がいた。第二次大戦中の44年6月、ナチス親衛隊に全人口に近い642人を殺害された村を今春まで19年間治めた人物だ。

 オラドゥール村は戦後一貫してドイツ首脳の訪問を拒否。独仏和解の「最後の難題」と言われる中、ドイツ側に交流を呼びかけ、住民感情を少しずつ変化させたのがフリュジエ氏だった。

 事件当時は4歳。村の外れに住んでいたため難を逃れた。戦後、犠牲者遺族のドイツへの根深い敵意を間近で感じる一方、隣人との和解が全く進まないまま時代が流れていく現状に「過去をそのままにして死者が報われるのか」との疑問も抱いた。

 71年に村会議員に選出。歴代村長はドイツとの接触を避けてきた。遺族感情を刺激すれば政治生命にかかわるからだ。だが、95年の村長就任後、00年5月に戦後初めてドイツ代表団を村へ受け入れた。出迎えた村会議員は一人もいなかった。それでも「誰かが行動を起こさないと何も変わらない」との信念は変わらなかった。

 03年に独南部ミュンヘンを訪れ、09年にはナチス強制収容所があった独南部ダッハウの市長に自ら連絡し、相互訪問を始めた。交流では「ドイツ側が持つ過去への罪悪感を肌で感じた。ドイツが罪を認めれば、住民は必ず許す」と確信した。

 独仏友好条約50周年の昨年2月、パリの独大使館を訪れ、ドイツ首脳の来訪を打診。同年9月、独首脳として初めてガウク大統領が村に足を踏み入れた。事件当時のまま保存された廃虚の中、ガウク氏はオランド仏大統領、虐殺の生存者ロベール・エブラスさん(89)と手をつないで歩き、慰霊した。

 ガウク氏は演説で述べた。「この罪はドイツによってなされた。あなたたちが和解への意思を持って共に前進してくれることに、すべてのドイツ人の名において感謝したい」

 約250人の仏独政府関係者や住民が集まった仏リモージュでの式典。ハッセルフェルト氏は07年に初めてオラドゥール村の廃虚を訪れた時のことをこう振り返った。「その光景に衝撃を受け、恥ずかしさで胸がいっぱいになった」。同氏もまた、この体験を基に両国の交流に奔走してきた。壇上で、勲章を贈られたフリュジエ氏にハッセルフェルト氏がねぎらいの言葉をかけ、抱きしめた。

 ◇しこり今も

 戦後70年を前に独仏両国の和解は一層深化し、欧州統合の波は東西冷戦時代の「鉄のカーテン」の向こう側まで広がった。だが、ドイツが抱える歴史認識や戦後賠償の問題が完全にぬぐい去られたわけではない。<左面に続く>

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 ニュースサイトの「戦後70年」特設ページは、戦後70年 - 毎日新聞
    −−「戦後70年これまで・これから:第1回 ドイツはどう隣国の信頼を得てきたか(その1)」、『毎日新聞』2014年12月29日(月)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141229ddm010030019000c.html




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戦後70年これまで・これから:第1回 ドイツはどう隣国の信頼を得てきたか 石田勇治氏
毎日新聞 2014年12月29日 東京朝刊

 ◇罪と責任分ける独 日本も発想転換を−−東京大大学院総合文化研究科教授(ドイツ近現代史)・石田勇治(いしだ・ゆうじ)氏


和解努力、重ねた独 紛争地へ武器「近隣国が信任」
 周辺国との和解を巡る日本とドイツの最大の違いは、日本が国家間条約など法を重視する立場から、中国や韓国などから発せられる個人補償要求を解決済みとして門前払いしてきたのに対し、ドイツは法を尊重しつつ、法だけでは解決しない問題に道義的立場から対処してきた点にある。

 ドイツの過去の克服を振り返る中で分岐点の一つになっているのが、1990年の東西ドイツ再統一以降に問題化した戦時下の強制労働者への個人補償だ。米国で個人補償を求める裁判が起こされ、ドイツ製品の不買運動が広がるなど独政府は対応を迫られた。この時、シュレーダー首相(当時)は「法的責任はない」と主張した上で、道義的、政治的責任から問題解決の糸口を見いだすとして、2000年に半官半民の基金「記憶・責任・未来」を発足させ、被害者に補償を行った。

 この基金は日本が元慰安婦に道義的な個人補償を行った「アジア女性基金」とよく比べられるが、女性基金と違い、独政府が立法行為を経て設立したものだ。ドイツが払った1人当たりの金額は女性基金に比べ少額だが、独政府が前面に出た対応は国際社会で高い評価を受けた。

 ドイツ人と日本人の考え方の違いの一つとして、ドイツでは罪と責任を分けるが、日本ではこれを同一視しがちだ。ドイツでは罪は個人的なもので、世代をまたいで継承されない。だが、責任は継承される。現世代にはナチ体制の罪はないが、未解決の問題を解決する責任があると考える。

 ドイツも決して戦後を通して過去と積極的に向き合ってきたわけではない。終戦直後はナチスの残党が西独政府に再雇用され、「何よりもダメなドイツ」と非難を浴びた。ただ、補償問題などで法的に必要がないからといってやらないという態度は取らず、世代が代わるごとに過去の不法行為を認め、謝罪や補償で責任を果たした。

 和解のプロセスでドイツは一つの模範を作った。今では普通の国として海外派兵やイラクへの武器供与でも隣国から非難されることはない。だが、日本はこうした状況になっていない。日本国内では「日本の事情はドイツと違う」との声が聞かれるが、終戦70年が近づく今、日本が過去を踏まえ責任を果たす国として国際社会に評価されるためには、発想の転換が必要な時期に来ているのではないか。【聞き手・中西啓介
    −−「戦後70年これまで・これから:第1回 ドイツはどう隣国の信頼を得てきたか 石田勇治氏」、『毎日新聞』2014年12月29日(月)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141229ddm010030046000c.html


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