拙文:「書評 伊藤貴雄『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学 戦争・法・国家』(晃洋書房)」、『第三文明』第三文明社、2015年3月、92頁。

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書評
ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学 戦争・法・国家』
伊藤貴雄著
晃洋書房 本体4,100円+税

今読むべき、国家の論理をしなやかに撃つショーペンハウアー

 近代西洋の哲学史においてショーペンハウアーほど不当な誤解を受けた哲学者は稀であろう。本書は、その思索の出発から主著へ至る道筋を丹念に辿ることで、常に付きまとうペシミズムの反動的な非合理主義者といったイメージを一新する。そこには、陰鬱な印象とは裏腹に、時代精神と真っ向から対決した青年哲学者の姿が浮かび上がる。著者は時代精神と格闘したショーペンハウアーの翠点を「兵役義務という国民国家イデオロギーとの対決」というその社会哲学に見いだす。
 ショーペンハウアーの生きた時代はポストフランス革命の混乱期であり、それは国民国家の創業時でもある。第一著作『根拠律』を刊行した一八一三年、プロイセンでは対仏解放戦争が始まり、一般兵役義務制が導入された。ドイツ観念論の雄・フィヒテは国家に個人の完成を見て「国家によって個人の権利を基礎づける」全体性優先の立場を打ち出すが、国家を絶対視する眼差しこそ人間を秩序づける危うさではないかと見抜いたショーペンハウアーは、「個人の権利によって国家を基礎づける」個体優先の立場を志向する。国家の役割は徳の実現という積極性ではなく、苦痛の軽減という消極さにしかないのだ。徴兵を呼びかける側に立つフィヒテと、強制される側のショーペンハウアーは対照的である。「私の祖国はドイツよりももっと大きい」。
 著者の論考は、全体性優位の国民主義とは異なる個体性優先の公共哲学としてのショーペンハウアーのアクチュアリティを浮き彫りにする。無関心とは同義ではないショーペンハウアーの消極的な非政治的態度がより政治的な批判として鋭く機能することには驚くほか無い。国家の自明性に疑義が呈されて久しいが、翻って現代日本に注目するとどこ吹く風で、声高に国家への忠誠を強要しようという論調がもてはやされている。全体への回収の虚偽をしなやかに撃つ本書は、その超克のヒントに満ち溢れている。仮象を撃つために超越を持ち出す必要ない。自ら考えぬくことだ。思想史刷新する名著の誕生である。
東洋哲学研究所委嘱研究員 氏家 法雄)
    −−「書評 伊藤貴雄『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学 戦争・法・国家』(晃洋書房)」、『第三文明第三文明社、2015年3月、92頁。

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