覚え書:「こちら特報部:安保法制審議入り 政権内相次ぐ言語破綻」、『東京新聞』2015年05月27日(水)付。

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こちら特報部
安保関連法案審議入り
政権内 相次ぐ言語破綻

 安全保障関連法案が二十六日、審議入りした。平和主義を守れるか否かもさることながら、そもそも議論が成り立つのか、という不安が漂う。「安全な場所で後方支援」という首相のせりふがある。安全かどうか、言った誰に聞くのか。党首討論では、政府制つめが正しい根拠を「私が総理大臣だから」と言ってのけた。論理も言語も破綻している。日本の政治こそ「存立危機事態」にあるように映る。(白名正和、三沢典丈)

首相説明矛盾だらけ
後方支援「安全確保」奇妙な理屈

政治こそ「存立危機事態」
はぐらかし、言いくるめ…最後は「私が総理」

 「一般に海外派兵は認められていない」。二十日の衆議院党首討論で、民主党岡田克也代表から安保法制が成立した場合の自衛隊の行動を問われ、安倍首相はこう断言した。さらに「外国の領土に上陸していって、戦闘行為を行うことを目的に武力行使を行うことはない」と続けた。
 だが、首相はペルシャ湾で想定される機雷除去については「『一般』の外」とし、可能との認識を示した。国際法では、機雷除去は武力行使に相当する。
 前日の十九日、政府は閣議で、一九九一〜九二年の宮沢喜一首相(当時)の国会答弁を変更した。宮沢答弁は、海外での武力行使が「許されない」という内容だった。変更の翌日、正反対の見解を言い放った。
 安保関連法案を閣議決定した十四日の記者会見で、首相は自衛隊の人道復興支援や国連平和維持活動(PKO)などについて、「いずれの場合においても、武力の行使は決して行いません」と断言した。
 しかし、法案では武器の使用条件を大幅に緩和。PKO協力法改正案では「駆けつけ警護」などでの使用を可能にした。国際平和支援法案での人実などの「捜索救助活動」でも同様だ。これらは武力行使だ。
 米軍などへの後方支援(兵たん活動)について、首相は党首討論で「しっかりと安全が確保されている」場所で実施すると語った。だが、戦争で相手側の兵たん部門を狙うのは常とう手段だ。安全か否か、「敵」に聞くのだろうか。
 戦火が及んで危なくなったので、兵たんを中止して逃げると、現場で前線に通告できるはずもない。
 安保法制によって「抑止力が高まり、戦争に巻き込まれなくなる」も、奇妙な理屈だ。自らの戦力は「戦争をしない」張り子のトラだと宣言すれば、抑止力となりようがない。
 その点を譲っても、抑止力向上は疑問だ。ストックホルム国際平和研究所の調べでは、二〇一四年の軍事費は米国がトップで、全世界の軍事費の34・3パーセントを占める。日本は2・6%だ。
 米軍が日米安保条約の枠組みで、日本の抑止力になっていることは分かる。しかし、日本と米国と集団的自衛権を行使できるようになって、どう抑止力が高まることになるのか。
 五月の記者会見で、首相は米国の戦争に巻き込まれることは「絶対にあり得ない」と強調した。だが、かつて朝鮮戦争ベトナム戦争では、沖縄の米軍基地が出撃拠点となった。アフガニスタン戦争でも、海上自衛隊の補給艦などがインド洋で給油活動をした。自衛隊は戦争公に加わらなかっただけではないか。
 安保法制に関する首相の発言には、白を黒といいくるめる強引さがある。言葉が意味をなしていない。

 こうした首相の支離滅裂ともいえる発言は、現在の安保法制に限らない。
 今夏に発表予定の戦後七十年談話については、四月に「歴史認識は(村山談話の)基本的な考え方を引き継いでいく」と語った。
 基本的な考え方とは、侵略の史実を認めることだ。だが、同時に「国策を誤り」「痛切な反省」といった侵略を前提とした文言については「同じ言葉を入れるなら、談話を出す必要はない」と発言している。
 昨年五月の記者会見で、「解釈改憲立憲主義の否定につながる」と指摘された際には、「立憲主義にとっとって政治を行っていくのは当然だ」と、質問をはぐらかした。間もなく、解釈改憲といえる集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切った。
 一三年九月にアルゼンチンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)の総会。五輪誘致の演説で、首相は福島原発事故の汚染水について「状況はコントロールされている」と語った。猪瀬直樹都知事(当時)は「必ずしもアンダーコントロールではない」と指摘したが、どちらが正しかったのかは周知の通りだ。
 こうした「安倍話法」ともいえる言葉の破綻は、周辺にも伝搬している。
 米軍の司令官が一三年七月、垂直離着陸輸送機CV22オスプレイ横田基地配備を示唆した際、菅義偉官房長官は「米側からの通知はない。実現性はないと思っている」と話した。
 ところが今月十二日、日米両政府によって横田配備が正式に発表された。菅氏は記者会見で、二年前の発言との整合性についてただされると「(当時は)正直言って、全く聞いていなかった」と弁明した。
 安保法制が成立した場合の自衛隊員のリスクについても、意味不明だ。中谷元。防衛相は二十二日の改憲で「これまでも、自衛隊員はリスクの高い任務を遂行している。安保法制で(リスクが)増大することはない」と断言している。
 しかし、振り返ってみたい。昨年五月、石破茂自民党幹事長(当時)はNHKの番組で「日本が攻撃を受けた場合、米国の若者が血を流す覚悟をしている。(米国が攻撃されて)『日本は命を懸けません」でよいのか」と、集団的自衛権の行使容認を訴えた。首相も自著で、同じ趣旨の記述をしている。これはリスク増大を覚悟すべきだと主張していたに等しい。
 ただ、こうした無責任ともいえる発言が首相や周辺から発せられながらも、政権の支持率はいまだに高い。これはなぜか。
 千葉大の小林正弥教授(政治哲学)はこう語る。
 「インターネットの普及で、感情やムードが世相を支配するようになった。それに伴い、政治家の問題発言を深く考える傾向が薄まっている。報道する側も優等生や官僚的な思考の人間が増え、政権側の揺さぶりに反応し、追及が甘い。これらが悪循環し、慣らされてしまっているのでは」
 では、どうすべきか。
 「ムードに支配されないためには、人間の理性や教養を一から立て直さないとダメだ。メディアの自覚とともに、どう生きるためにどう行動するべきか、国民一人一人が考えねば」
 とはいえ、問題は眼前にある。安倍首相は党首討論で、民主党岡田代表から「(安保関連法案の説明が)間違っている」と指摘され、こう発言した。
 「何をもって間違っているというのか分からない。われわれが提出する法律(案)についての説明は全く正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」
 首相であることが、なぜ正しさを担保するのか。そこに論理はない。安保関連法案に出てくる「存立危機事態」は日本の政治状況に当てはまりそうだ。
[デスクメモ]「戦争は平和である」「無知は力である」「自由は屈従である」。これは英作家ジョージ・オーウェルの近未来小説「1984」(一九四九年刊行)で、架空の全体主義国家「オセアニア」が掲げるスローガンだ。国民は事の矛盾を感じぬよう洗脳される。想定から約三十年遅れ、悪夢は現実になりつつある。(牧)
    −−「こちら特報部:安保法制審議入り 政権内相次ぐ言語破綻」、『東京新聞』2015年05月27日(水)付。

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