覚え書:「今週の本棚:張競・評 『孔子と魯迅 中国の偉大な「教育者」』=片山智行・著」、『毎日新聞』2015年06月21日(日)付。


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今週の本棚:張競・評 『孔子魯迅 中国の偉大な「教育者」』=片山智行・著
毎日新聞 2015年06月21日 東京朝刊



 (筑摩選書・2052円)

 ◇主張の違いにみる人間性向上の共通点

 二〇一一年初頭、北京の天安門広場で奇妙なことが起きた。広場の東側にある中国国家博物館の前に高さ九・五メートルの孔子像は何の前触れもなく設置され、市民たちを驚かせた。役人の腐敗が深刻化し、国民のあいだで拝金主義が蔓延(はびこ)っている。現状を憂慮した当局が、孔子の力を借りてモラルを高めようとしたのではないか、との推測もあったが、わずか三カ月後、巨大な孔子像は突如として姿を消した。その裏には何が起きたのか、西側のメディアでは一時、政治的な臆測が飛び交っていた。

 長い歴史のなかで、孔子は聖人として崇(あが)められていたが、近代に入ってから一転して封建主義の象徴となった。清王朝を倒し、近代国家を目指した辛亥(しんがい)革命が、孔子打倒の掛け声とともに起きたのも決して偶然ではない。新旧対立、思想対立、伝統対革新のなかで、孔子はいつも都合のいい政治的記号として利用されていた。現代でも例外ではない。毛沢東周恩来の失脚を狙って、「批林批孔」運動を発動したのはその最たる例だし、前述の孔子像をめぐる騒動も辞書的な解釈ではとうてい説明できないであろう。

 かりに儒教の象徴とされた孔子が人為的に創られた虚像であるならば、生身の孔子とはどのような人間で、その教えはどのようなものなのか。この問いかけに答えるために、著者の長い探索の旅が始まった。

 魯迅(ろじん)研究の専門家はなぜ孔子に興味を持つのか。周知のように、魯迅はかつて儒教批判の急先鋒(せんぽう)であった。思想的にまったく相容(あいい)れないように見える二人はなぜ同列に扱われているのか。

 孔子魯迅も国民性の改造に生涯を捧(ささ)げた。二人の生きた時代は違うし、個性も学問的背景も異なっている。しかし、人間性の向上をめざし、中国人が持っている「いい加減さ」を変えようとした点では共通している。むろん、孔子の時代にはまだ「国民性」という意識はなかった。秩序が安定し、平和的な暮らしを送るために、どのような内面の修養が必要かを説いたのが孔子だ。それに対し、魯迅は近代的な心的習慣を形成するために、何をすべきかについて生涯考え続けた。主張が正反対のようだが、目的は通底している。

 孔子魯迅もそれぞれの時代において、人間を人間たらしめることの切迫性を痛感した。その思想は二人が生きた時代を抜きにしては語られない。本書が伝記的事実を踏まえながら、その思想の起源をたどったのはそのためである。一つ一つの言葉がどのような場面で発せられたか、個々の作品はいかなる状況のもとで生まれたのか、丁寧に検証していくと、『論語』の言葉も、魯迅の文章も本来の輝きを取り戻した。

 孔子は「仁」に最大の価値を置いている。その場合、仁の基本は相手も同じ人間と見なすヒューマニズムで、仁政とは愛情にもとづく政治である。孔子において、社会は個人の自由な契約によって成り立つという、ルソーの社会契約論的な要素さえ含んでいると著者は見る。

 なるほど、孔子はつねに「忠」の重要性を強調した。しかし、何が何でも一つの国、一人の主君に殉ずる考えを持っていない。「危邦ニハ入(い)ラズ。乱邦ニハ居(お)ラズ」(危険な国には行かず、乱れた国には居らない)といった言葉からも窺(うかが)えるように、居住地の選択はむしろ権利として行使した。実際、魯国の政治に失望するとさっさと見切りをつけ、何の未練もなく自分の祖国を去ってしまった。孔子において、「忠」や「孝」といった徳目はすこぶる柔軟であった。

 教育者としての孔子は立派で、政治家としても辣腕(らつわん)を振るい、それなりの業績を残した。孔子の教えは当時だけでなく、今日読んでも感銘を受けるものが少なくない。しかし、漢代以降、体系化された儒教は統治者のために再編されたもので、孔子の教えとは必ずしも同じではない。

 そのことを知ってか、知らなかったかはともかく、近代啓蒙(けいもう)主義者の魯迅にとって、文化再建に向ける想像力の投影先に儒教批判は必然的にあるものだ。小説家として、魯迅論語を詳しく分析した上で批判しているわけではない。硬直化した儒教と決別することは近代に向けての、精神的な通過儀礼でもあった。

 中国文化の揺籃(ようらん)期において、「仁」「礼」「忠」「孝」などの徳目を通して、人間性を向上させようとした孔子に比べて、魯迅が生きた時代は中国文明の灯がまさに消え入ろうとした。列強の侵略、軍閥の乱戦、社会秩序の崩壊。難問が山積し、一つの問題はほかの問題と複雑に絡んでいる。ただ、魯迅にしてみれば、すべては表面的な現象に過ぎない。根本的な問題は人間の心にある。『狂人日記』にあらわれた「礼教」批判は一見、孔子にも矛先を向けているように見えるが、民衆の魂の救済という点では両者は同じである。

 本書は孔子魯迅の人物伝であり、その思想についての批評でもある。同時に中国人の心性史としても読める。誰でも理解できる文体と読みやすい展開は何よりもありがたい。批評の奥深さをうちに秘めながら、中国を知るための、わかりやすい道案内になっている。
    −−「今週の本棚:張競・評 『孔子魯迅 中国の偉大な「教育者」』=片山智行・著」、『毎日新聞』2015年06月21日(日)付。

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