覚え書:「今週の本棚:中島京子・評 『満洲難民−三八度線に阻まれた命』=井上卓弥・著」、『毎日新聞』2015年07月05日(日)付。

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今週の本棚:中島京子・評 『満洲難民−三八度線に阻まれた命』=井上卓弥・著
毎日新聞 2015年07月05日 東京朝刊


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 (幻冬舎・2052円)

 ◇国家と軍に見捨てられた日本人たち

 1945年8月9日、ソ連軍が満州国の首都だった新京を空襲する。日ソ中立条約が破られた決定的な瞬間だ。同日、満州国にいる40歳を超えた男たちには赤紙が届いた。終戦直前まで続いた関東軍の「根こそぎ動員」である。ところがなんということだろう、その関東軍は、いち早くポツダム宣言受諾の動きを察知して、まさにその日に、家族を逃がしはじめるのだ。

 当時、満州に日本人は155万人もいたという。そのうち国策によって満ソ国境地帯に入植した満蒙(まんもう)開拓移民の3割近く約8万人は、ソ連軍の無差別攻撃によって亡くなった。「その惨状に比べれば」「まだしも恵まれていた」新京の一般市民に疎開の通達が出るのは、しかし、軍関係者が南部に逃れた後(戦後、朝鮮半島南部を掌握したアメリカ軍は、比較的早く日本人の本国への移送を実現した)。貨車に詰め込まれて新京を逃れ、朝鮮半島北部に「疎開」するも、そこで市民は終戦を迎える。朝鮮半島はもはや日本の植民地ではなくなり、為政者となったソ連軍は日本人の移動を禁止、北緯38度線を閉鎖してしまう。難民約7万人を加えた日本人約40万人が留め置かれ、わずか1年間に約3万4000人が死亡した。

 本書は、飢餓、伝染病、寒さに苦しめられた「郭山(かくさん)疎開隊」1094名の軌跡を辿(たど)る(こうした「疎開隊」が何十組もあった)。「根こそぎ動員」で兵士となった満州の日本人男性の多くがシベリア抑留に遭う一方で、疎開隊の構成者はほとんどが女性、子ども、高齢者であったという。一夜にして難民となった彼らが、さらに南下して北緯38度線を越え、終戦の翌年秋に日本に辿り着くまでの決死行。疎開隊に属し、別働隊として新京に戻ってから帰国した女性を祖母と伯母に持つ著者が、丹念に記録を掘り起し、取材を重ねて明らかにした。

 満州から逃れた人々を「避難民」、帰国者を「引き揚げ者」と呼ぶことに、著者はタイトルで異議を唱える。崩壊した満州国に居られなくなり、やむを得ず向かった先も、もはや自分の国ではない朝鮮半島で、難を避ける場所など用意されていなかった人々、生活基盤の一切を投げ出して身一つで命からがら逃げ、海を渡るしかなかった彼らを称する言葉としては、「Refugee」の訳語である「難民」をあてはめざるを得ないと著者は書く。

 彼らはあきらかに国家と軍による「棄民」だった。ポツダム宣言を受け入れた日本政府に、軍関係者の帰国を促す施策はあっても、民間人保護はその概念すらなかったのだ。残留日本人に対して取られた方針は「現地定着」。ようは、ソ連、中国、アメリカなどの戦勝国に、日本人の保護を丸投げしたのだった。

 沖縄戦を語るときに言及されることの多い、敵に辱められる前の自決も、本書には登場する。思い詰めた母親たちが隠し持った青酸カリを幼児に飲ませ、無理心中を図る。生き抜くことを決意し選択した人々の生活も苛酷だ。国家や軍に守られることのない、よるべない「難民」たちは、身に着けた衣服すら売り、干した大豆をかじりながら生き延びるのだが、伝染病も強盗の恐怖も常に隣にあるのだ。

 敗戦国民に転落した日本人に辛(つら)くあたる元植民地の人々の描写もあるが、一方で、国家に見捨てられた残留邦人に救いの手を差し伸べた、中国人や朝鮮人の存在があったことも、記録から読み取れる事実だ。

 戦後70年、ほとんど語られなかった「難民」たちの戦後は、国家や戦争というものをあらためて考えさせずにはおかない。
    −−「今週の本棚:中島京子・評 『満洲難民−三八度線に阻まれた命』=井上卓弥・著」、『毎日新聞』2015年07月05日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150705ddm015070039000c.html


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