覚え書:「特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/7 成長よりも豊かさこそ 経済学者・都留重人さん」、『毎日新聞』2015年08月18日(火)付夕刊。

Resize3449

        • -

特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/7 成長よりも豊かさこそ 経済学者・都留重人さん
毎日新聞 2015年08月18日 東京夕刊


 ◇日本が目指すべきもの 経済学者・都留重人さん(2006年死去、享年93)

 1941年12月8日、日本が真珠湾を攻撃した際の都留重人さんの日記を、一橋大(東京都国立市)で読んだ。黄ばみかけた三越の原稿用紙に12月9日の日付、きちょうめんな万年筆の文字。<街頭のニューススタンドにWAR!と黒字(原文のまま)に白くぬき出したヘッドラインのボストンのタブロイドペーパーが眼を射る。ホノルルが攻撃され、350名死んだとある。(中略)指をさされとがめられている様な気持ちで吾家までひきかえす>。米国のハーバード大で博士号を取得した都留さんは日米開戦時、同大で教壇に立っていた。

 教授や学長を歴任した一橋大には生前、日記や書簡、原稿など1万5000点を寄贈した。現在、一橋大経済研究所資料室では12月までの予定で「都留重人の戦争」と題し、資料の中から戦争に関するものを集めた企画展が開かれている。資料室の藤井裕子さんが「物を大事に保存される方だったようです」と話す通り、「WAR!」の極太見出しが付いたタブロイド紙の号外もある。

 90年1月に明治学院大で行った講演「激動の時代と日本の役割」の手書きメモには<日本が世界の軍縮のリーダーシップをとること><人間尊重の立場を第一義とする>などの文字が。箇条書きのリポート用紙にも、生涯を貫いた信念がにじむ。

 都留さんは開戦後、日米交換船で帰国。47年に経済安定本部(旧経済企画庁)の総合調整委員会副委員長(現在の事務次官に相当)に就任した。その年に発表した初の経済白書では「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と、戦後日本の置かれた苦境を表した。

 当時、部下だった宮崎勇元経済企画庁長官(91)は「我々はGNP(国民総生産)とか成長率が大事だと言っていたが、都留さんは『国民が豊かになることが究極の目標であり、GNPが大きくなっても仕方ない』と言っていました」と振り返る。

 「成長よりも人間の豊かさ」という考えは、48年に一橋大教授に就任後も変わらなかった。高度成長のひずみとして公害問題が顕在化すると、63年に「公害研究委員会」を発足させ、委員長に就任する。のちには、水俣病を告発した宇井純さんや世界的な経済学者の宇沢弘文さんらも参加する。

 設立当初のメンバーで、環境経済学者の宮本憲一大阪市立大名誉教授(85)に会いに8月上旬、セミしぐれが降る長野県の山荘を訪ねた。「『公害』という言葉が国語辞書にも載っていない、欧米にも理論や対策の制度がない時代でしたが、調査では企業や行政だけでなく、必ず被害者に会い、声を聞いた。ヒューマニズムを信条とする都留さんが、その人々の立場に立つことを重視したからです」

 メンバーは熊本県水俣市三重県四日市市など主な公害発生地域で現地調査をし、裁判では原告側の科学者証人として法廷に立った。その活動は国や自治体、企業の公害対策を促した。

 「ハーバードで学んだことが土台になったことは間違いありませんが、都留さんは古今東西の経済学や社会科学の理論の中から、社会問題に応じて最も適当なものを引っ張り出して分析できるという点で類いまれな人だった」と宮本さん。

 教育者としても既存の枠にとらわれなかった。

 48年9月から亡くなる前年の2005年10月まで、主に東京・赤坂の自宅で実に57年間にわたり「背広ゼミ」を主宰した。ゼミ幹事を務めた塚本文一さん(91)は48年3月に一橋大を卒業し、商社に就職した。「私は学徒出陣で、戦後復員しましたが、ほとんど勉強する機会なく卒業しました。そこで友人2人と都留先生のご自宅を訪問し、社会人になっても勉強したいとお願いしたのです」

 月2回の火曜日の夜が定例だった。テキストには世界の政治経済から社会思想まで、その時点での最新の理論が分かる洋書で、なおかつ日本語訳が出ていないものを使うのが方針だった。メンバーは一橋出身者に限らず銀行員や商社マン、メーカー勤務など多岐にわたり、延べ約30人が参加した。テキストで使った一部の洋書は、メンバーが手分けをして翻訳し出版。その一つ、ジョン・K・ガルブレイス著「不確実性の時代」はベストセラーになった。

 「いつもちょうネクタイ姿で、お好きなウイスキーと奥様の手料理をいただきながら先生と雑談するのも楽しみでした」

 「今起きていることは、都留さんが生きていたら全て反対の論陣を張るだろうなあ。原発再稼働も、安保法制も、アベノミクスも」。宮本さんは遠いまなざしで語る。都留さんは公害問題に取り組み始めた当初から、反原発を訴えていた。「戦後の公害問題で、コミュニティーが消滅するとか、長期避難を強いられることはあり得なかった。あの人なら、明治政府が谷中村を廃村にした足尾鉱毒事件を例に引いて『最悪の被害』だと言ったに違いないですよ」

 著書「資本主義の終焉と歴史の危機」で「脱成長」を主張する水野和夫・日本大教授(62)は「都留先生が最後に書かれた『市場には心がない』(06年刊)のサブタイトルは『成長なくて改革をこそ』。まさにその通りです」と言う。

 「プラス成長を目指せば一歩前に出て無理をしないといけない。アベノミクスは第一の矢(金融緩和)、第二の矢(財政出動)、第三の矢(成長戦略)の全てで無理をしています。第三の矢などは幻影を一生懸命に射ているようなものです」

 その「市場には心がない」は「市場原理主義新自由主義の下で人間が競争を強いられている状況では、労働者は人間性をなくしてしまうと厳しく批判」(宮本さん)している。

 都留さんは、研究者が特定分野に閉じこもることにも危惧の念を抱いていた。

 「小さな塹壕(ざんごう)の中から鉄砲で撃つようではいけない。塹壕から出て、全体を見なければいけないんだ」。宮崎さんに対し、そう語ったことがある。

 その考えに共鳴するのが「経済学は社会批判のためにある学問であり、視野狭さくに陥ることは、経済学者として最もあってはならない」と語る浜矩子同志社大教授(63)だ。

 浜さんが一橋大在学中、都留さんは学長で、直接指導は受けていないものの「社会科学者は基本的に反体制の姿勢を持つべきですが、都留先生はそういうスタンスをきちっと維持しておられた。かくあらねばならないと思います」と自戒する。

 幅広い視野と高い見識、さらに「人間尊重」の信念に裏付けられた行動や評論が、都留さんの真骨頂だった。この国のかたちを左右する課題ばかりの夏だからこそ、学者ヒューマニストの提言を聞いてみたかった。【葛西大博】=つづく

==============

 ■人物略歴

 ◇つる・しげと

 1912年東京生まれ。ハーバード大経済学部卒業。召集され44年6−9月、宮崎県の陸軍部隊に入隊。72−75年一橋大学長。70−80年代に革新陣営から度々、東京都知事選出馬を要請されるも固辞。「日本の資本主義」「日米安保解消への道」など著書多数。
    −−「特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/7 成長よりも豊かさこそ 経済学者・都留重人さん」、『毎日新聞』2015年08月18日(火)付夕刊。

        • -


http://mainichi.jp/shimen/news/20150818dde012040003000c.html





Resize3450

Resize3455