覚え書:「今週の本棚:川本三郎・評 『わたしの木下杢太郎』=岩阪恵子・著」、『毎日新聞』2015年10月18日(日)付。

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今週の本棚:川本三郎・評 『わたしの木下杢太郎』=岩阪恵子・著
毎日新聞 2015年10月18日 東京朝刊


 (講談社・1944円)

 ◇忘れられつつある文学者に光あて

 「木下杢太郎(きのしたもくたろう)の名を今日どれだけの人が知っているであろうか」と冒頭で著者は言う。

 確かに杢太郎の名は今日、同時代の北原白秋斎藤茂吉石川啄木に比べると知られなくなっている。

 出身地の静岡県伊東市には木下杢太郎記念館があり、きちんと顕彰されてはいる。師と言うべき森鴎外の小説『青年』の主人公、小泉純一の友人、医科大生の大村荘之助(しょうのすけ)のモデルは杢太郎とされている。景仰した鴎外の偉大さを「テエベス百門の大都」と評したことも鴎外論ではよく引用される。

 あるいはまた松本清張芥川賞受賞作『或(あ)る「小倉日記」伝』は「昭和十五年の秋のある日、詩人K・Mは未知の男から一通の封書をうけとった」から始まり、「K・M」についてこう説明されている。

 「Kは医学博士の本名よりも、耽美(たんび)的な詩や戯曲、小説、評論などを多く書いて有名だった。南蛮文化研究でも人に知られ、その芸術は江戸情緒と異国趣味とを抱合した特異なものと言われていた」。「K・M」とは木下杢太郎のことと分かる。

 ある世代までは、確かに親しい名だった。しかし、いま、詩集『食後の唄』や戯曲『南蛮寺門前』がどれほど読まれているか。

 文学者の評伝を書く醍醐味(だいごみ)のひとつは、忘れられつつある文学者に、もう一度、光をあてることにある。なぜこの人が読まれなくなったのか、もっと読まれて欲しい。そうした使命感から本書も書かれている。

 とはいえ、決して堅苦しい評伝ではない。文学者として、また医学者(本名、太田正雄)として二つの人生を生きた杢太郎に寄り添い、柔らかい文章で、その生を辿(たど)っている。

 「日中は太田正雄として働き、夜は木下杢太郎として働く」。医科大学の教授の仕事を終えて自宅に帰ってから、夜の時間を勉強、読書、執筆にあてる。

 杢太郎は生涯、医学者と文学者の二つを生きた。そこに杢太郎の充実もあったが、同時に文学に集中出来ないという悩みもあった。

 実際、文学者として活躍したのは二十歳から三十歳までで、その後は医学に専念した。今日、杢太郎が読まれなくなった一因は、そこにあると著者は言う。

 明治時代、現代に比べ文学の地位は低かった。男子一生の職業ではないとされた。そのことが明治の文学青年の多くを苦しめた。杢太郎もまた少年時代、美術学校に進んで画家になりたい、あるいはドイツ文学を専攻したいと望んだが、医者になって欲しいという家族の希望(あるいは強制)に逆(さから)えなかった。

 医師として大きな業績を残しながら、それが、自分の望んだ道ではなかったのではという悔いが残った。著者は、そこに痛ましさを見ている。

 文学者として生きることを断念する。抑制する。そして医学という実学で世に生きる。「科学の研究と美への惑溺」をどう両立させたらいいのか。悩み続けた。

 杢太郎は「放恣(ほうし)であるよりも自律を選んだ」。つねにバランス感覚があった。「彼の書くものにはその奥に白秋、茂吉、啄木に劣らぬ抒情(じょじょう)性があるが、それが知的に抑制されているため読者がたやすく入りこめずとりつきにくく感じる」。知性による抑制は杢太郎の特色であると同時に弱点でもあった。日本の近代文学の多くは、自己をさらけ出すことをよし(、、)としていた。杢太郎はそれになじまなかった。

 著者はさらに杢太郎の活動が実に多岐にわたっていたことを驚嘆しながら追ってゆく。

 キリシタン史の研究、中国仏教文化への関心。旅行好きで、旧満州に勤務していた時には、洋画家の木村荘八と中国内陸を旅し、雲崗の石仏に魅了された。

 語学に堪能だったので海外に積極的に出かけている。アメリカ、キューバ、さらにフランス、イタリア、スペイン。フランスの植民地だったインドシナにも出かけている。

 紀行文も書き、「クウバ(キューバ)紀行」は三島由紀夫が『文章読本』のなかで「私がいちばん美しい紀行文と信ずるのは、木下杢太郎氏の文章であります」と絶讃(ぜっさん)している。

 医学者としての活動で目を惹(ひ)くのは、ハンセン病の研究に専念したこと。これは知らなかった。著者に教えられた。

 ハンセン病を研究してゆくなかで、この病気がたやすく伝染する病気ではないことを指摘、従って、当時、当り前とされていた患者の隔離政策は間違っていると批判した。先見の明があった。これまで語られることの少なかった医学界での大きな功績に驚かされる。

 杢太郎はまた植物を愛した。普通の人が見過してしまう雑草までよく知っていた。晩年には花のスケッチに慰めを得た。戦時下、体調が悪くなるなか、植物を観察し、写生した。その数は八百七十二枚にも及び、のち『百花譜』としてまとめられた。著者はこの本を高く評価している。花を見ることで、文学と医学に引き裂かれた心がなごんだのだろう。
    −−「今週の本棚:川本三郎・評 『わたしの木下杢太郎』=岩阪恵子・著」、『毎日新聞』2015年10月18日(日)付。

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