覚え書:「ザ・コラム:2つの敗戦国 学び損ねた「過去の克服」 駒野剛」、『朝日新聞』2015年11月05日(木)付。

Resize4504

        • -

ザ・コラム:2つの敗戦国 学び損ねた「過去の克服」 駒野剛
2015年11月05日

 1953(昭和28)年2月、旧西ドイツ・デュッセルドルフの中心部に、大きな目でひょろりと痩せた男の姿があった。

 向かうはナチス政権下、中央銀行総裁などを歴任し、敗戦後、戦争犯罪人を裁くニュルンベルク裁判の被告人席に座らされたシャハト元経済相のオフィスである。

 男の名は岸信介氏。太平洋戦争開戦時ログイン前の続き、東条英機内閣の商工相。無条件降伏後、戦犯容疑で逮捕されたが、後に釈放された。

 境遇が似た2人である。岸氏が遠路はるばる訪れたのは、同じ敗戦国である独の再建の歩みを見聞し、日本と比較することで「復興の参考とするため」だった。

 「おめでとう」。シャハト氏の言葉に面食らったであろう岸氏に、ドイツ人は語った。「戦争に負け、たたかれ、そのたびに強靱(きょうじん)な民族性と力強い努力を発揮してきた。(中略)従って、こんど日本が戦争に敗れたというのは、日本がより偉大になり、より立派になることで、そういう意味で、おめでとうといったのだ」

 岸氏は帰国直後の53年4月、衆院選で当選。4年後に首相に登り詰めた。独の旅は跳躍台となった。「日本の生きる道」と題する講演で「かつてドイツの国民と共に世界で二大働く国民であるという日本人の本質が目覚めてくる」と独を何度も引いて、復興に必要な国民の自信の再建を説いた。

 これに対し、シャハト氏は閣僚などに戻らなかった。ニュルンベルク裁判後も、ナチス協力者を処断する裁判が続いた。「ヒトラーを支えた銀行家」に周囲は冷たかった。

         ◇

 復興のかじを取ったのは、シャハト氏の1歳上で、ナチスにあらがって迫害され、73歳で首相になるアデナウアー氏である。

 51年9月、連邦議会で首相として「ドイツ民族の名において」犯された「言語を絶する犯罪」を認めた。「イスラエルユダヤ人団体への補償、それに続く補償法の制定が、独の補償の枠組みの基本を整え、『過去の克服』についても出発点になった」と板橋拓己成蹊大准教授は指摘する。

 信じるに足る国として世界的認知を得たことに加え、フランスを含む西欧諸国との協調重視の路線が、欧州統合へ発展。ナチスが残した負の遺産を、逆に信用と安全の土台という正の資産に変えていった手腕は、したたかといわざるを得ない。岸氏も3回会い、欧州一の経済大国に復興させたことに加え、「ナチ・ドイツの幻影を完全に払拭(ふっしょく)した手腕を評価」した。

         ◇

 岸氏に限らず戦後日本の指導者が、独の「過去の克服」を学んだとは思えない。

 57年2月、政権を担った岸氏は、2回に分けて東南アジア各国などを訪問する。

 「戦時中色々と迷惑をかけたり、被害を与えたりしたことに対し遺憾の意を表すると共に、アジアの日本としてこれらの国々の実情を把握し、首脳者と親しく語り合ってその要望を十分に把握した上で米国と話し合いに入ることが適切であると考えた」からだ。

 友好的な歓迎もあったが、戦争で111万人が犠牲になったフィリピンなどでは「戦時中、日本に対して抱いた悪感情が残っていた」と岸氏自身が記している。

 そして、かつての敵を含むこうした国々と運命共同体を構成する、という大戦略を描かぬまま、日米同盟の強化にひた走った。安倍晋三首相が集団的自衛権の行使を可能にしたのも、こうした流れの一環だ。

 日米同盟がいかに強化されても、潜在的な敵国が存在し続ければ、安全保障上の懸念はずっと拭えない。中韓との関係が緊張含みであり続けるのは、戦後70年たっても、真の和解がなされず、互いの歴史認識に大きな溝が刻まれたままだからだろう。

 敵に備える力の強化より、敵を減らす知恵を磨くことは、日本だけではなく、中韓にも課せられた東アジアの一大懸案だ。学び損ねた「過去の克服」の実行を、まず日本が働きかけ、中韓も担うようになってほしい。

 1日、3年余り途絶えていた日中韓首脳会談が開かれた。これを機に、この地域に生きた祖先が重んじた互譲の精神を私たちがとり戻すべく、相互に取り組み始めることを願うのは、見果てぬ夢だろうか。

 (編集委員
    −−「ザ・コラム:2つの敗戦国 学び損ねた「過去の克服」 駒野剛」、『朝日新聞』2015年11月05日(木)付。

        • -


http://www.asahi.com/articles/DA3S12051498.html





Resize4505

Resize4273