覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『絢爛たる悲惨 ドイツ・ユダヤ思想の光と影』=徳永恂・著」、『毎日新聞』2015年12月13日(日)付。

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今週の本棚
三浦雅士・評 『絢爛たる悲惨 ドイツ・ユダヤ思想の光と影』=徳永恂・著

毎日新聞2015年12月13日 東京朝刊

徳永恂(まこと)

 (作品社・3024円)

思想史、文化史抜きに語りえない国際政治

 著者はドイツ現代思想史研究の第一人者。本書はジンメルアドルノベンヤミンライヒフロイトアーレント、そしてヴェーバーハイデガーらを論じた文章を集めたものだが、小説のように面白い。論理の展開のすべてに自身の体験が密着し、いわば思想が生きられているからである。対象はすべてユダヤ系の思想家。例外はヴェーバーハイデガーだが、それも反ユダヤ主義との関連において。ユダヤ問題が彼らの思想の本質にかかわっているのだ。

 なぜユダヤなのか。著者は冒頭のエッセイで、祖父が「熊本バンド」の一員であり、徳富蘇峰、蘆花がその従兄弟(いとこ)であったことを明かしている。クリスチャンだったわけだ。だが、だからといってユダヤに関心を持ったわけではない。著者は熊本の旧制五高出身だが、家族が住んでいたために原爆投下二日後の長崎に入っている。その惨状を見たことが、あるいは素地になったかもしれないという。三十歳を超えてドイツに留学した著者は、いわゆるフランクフルト学派の人々を研究することになるが、気づいてみると、そのほとんどがユダヤ人だった。筆致は抑えられているが、要は二十世紀思想はユダヤ系の思想家抜きに語りえないということで、本書を読み終わるとそれが実感される。

 しかし、本書をたんに思想史、文化史の本と思ってはならない。というより、現在の国際政治は思想史、文化史を抜きには語りえないのである。たとえば、著者はロシアとアメリカ以上にいまやEUの可能性と不可能性に目を向けるべきだと説いている。「キリスト教ヨーロッパは、外部の他者(異教)としてのイスラムと、内部の他者(異端)としてのユダヤと、二重の対立関係にもとづいて、自己のアイデンティティを形成してきた」が、そのキリスト教ヨーロッパにも二つある。イスラム・トルコとじかに戦った国と、そうではない国すなわちドイツである。ドイツの北方十字軍はスラブと戦ったのだ。こうしてスラブ系のユダヤ人いわゆる東方ユダヤ人が浮上してくる。むろん、二十一世紀の現在、焦点はむしろイスラムにある。だが、このようにして形成されたドイツと英仏の微妙な差はそのイスラム対応にも揺曳(ようえい)しているのである。EUの現状が立体的に分かってくる。

 むろん本書の醍醐味(だいごみ)は思想家論にある。とりわけ『歴史哲学テーゼ』を中心においたベンヤミン論、ライヒとの関係から浮き彫りにされたフロイト論など、腑(ふ)に落ちること夥(おびただ)しい。神学といえばキリスト教神学を思い浮かべるが、むしろユダヤ教神学をこそ思い浮かべるべきなのだ。だが、そういう個別の思想家たちが現在の世界情勢につながる歴史を生きてきたことを忘れてはならない。彼らを知ることは世界の現在を知ることなのだ。

 末尾に付された、いまは亡き木田元との対談は、思想史を語って稀(まれ)にみる密度の濃さを保つ。二十世紀後半を生きてきた二つの知性の阿吽(あうん)の呼吸に深い感銘を受ける。木田は広島の原爆を目撃し、徳永は原爆投下二日後の長崎の惨状を目撃している。気迫が違う。

 表題の「絢爛(けんらん)たる悲惨」は、『永遠平和のために』に先立って国際連合を予言したことで知られるカントの論文「世界市民的見地における普遍史の理念」第七テーゼ末尾の言葉の転用だろう。カントの些細(ささい)な諧謔(かいぎゃく)をドイツ・ロマン派ふうのアイロニーにまで高めることによって、それじたい痛烈なカント批判、いや現代批判になっていて、本書の核心を一語で示す。世界はいまや「絢爛たる悲惨」のもとにあるのではないか、と。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『絢爛たる悲惨 ドイツ・ユダヤ思想の光と影』=徳永恂・著」、『毎日新聞』2015年12月13日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『絢爛たる悲惨−ドイツ・ユダヤ思想の光と影』=徳永恂・著 - 毎日新聞








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