覚え書:「憲法のある風景:公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた」、『毎日新聞』2016年01月01日(金)付。

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憲法のある風景
公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた

毎日新聞2016年1月1日 東京朝刊

(写真キャプション)原爆ドームの前で9条について語る清水徹雄さん。生後5カ月で被爆し、米兵としてベトナム戦争に送りこまれ「脱走」した体験を持つ=広島市中区で、川上晃弘撮影

(写真キャプション)米軍従軍時代の清水徹雄さん(写真の一部が欠損しています)=本人提供

 米国による広島への原爆投下から70年となった昨年8月6日、広島市清水徹雄さん(70)は被爆者として妻(67)と平和記念式典に参列した。そろそろ平和について考えてほしいと、初めて小学3年の孫娘も伴った。

 約5万5000人の参列者とともに目をつむって祈りをささげた時、自分を心配し続けた亡き母を思った。しかし、今、横にいる妻や孫らにきちんと伝えていないことがある。

 憲法9条を持つ国民ながら米兵としてベトナムで銃を撃ったこと、そして帰国後に9条を巡って翻弄(ほんろう)されたこと。

 高校卒業後の1966年5月、語学を勉強するため親戚を頼って渡米した。翌年、観光ビザの更新を申請すると、18−26歳の米在住の外国人男性にも義務づけられる徴兵局への登録を求められた。拒めば更新できないと言われ、やむなく応じた。

 当時、ベトナム戦争が泥沼化していた。外国人は徴兵免除を申し出られたのだが、知らなかった。徴兵され、ベトナム兵に模した人形を銃剣で刺す訓練を受け68年4月、ベトナム中部の山岳地帯にある米軍基地に配属された。

 ロケット砲攻撃を昼夜受ける最前線。敵の情報があればヘリで急行し、「人影を見たら撃て」と言われ、銃声がした方向に、自動小銃を何度も発砲した。密林の中で相手に当たったかは分からない。ある時は、基地にいた仲間の体がロケット砲で吹き飛んだ。

 5カ月後、休暇で広島の実家に帰った。清水さんの行動を知り、母は「もう兵隊に行かないで」と哀願した。戦地に戻るのが当然と思っていたが、母の嘆きは心に響いた。知人に紹介された反戦団体の勧めで「脱走」を決意した。

 米軍から脱走兵として身柄確保を要請されれば、日米地位協定に基づく刑事特別法で日本の警察に逮捕されるかもしれない。不安の中、読み返したのが日本国憲法戦争放棄を明記した9条を繰り返し見て、脱走は間違っていないと自らに言い聞かせた。団体と東京で記者会見して脱走を表明し、9条の意義を読み上げた。

 予想外の反応が待っていた。「彼は自ら徴兵に応じた」「戦地で怖くなって急に9条を持ち出すのはひきょうだ」。批判が殺到し、新聞やテレビ、雑誌でもバッシングされた。被爆体験さえ理由となった。「被爆者の気持ちが分からないのか」

 一方、東京や広島で「守る会」が結成された。広島で活動した岩谷和夫・広島県立保健福祉大名誉教授(73)は「国民を戦地に行かせない憲法の価値が問われた。支援署名は2週間で5000人分集まった」と振り返る。

 東京の滞在先に毎日数十通の手紙が届いた。激励と批判は半々。自分は9条について考えるリトマス試験紙のような存在と思った。68年12月、在日米大使館が清水さんの脱走を不問にすると談話を出し、騒ぎは収まった。

 原爆が投下された45年8月6日、生後5カ月の清水さんは畳ごと家の外に飛ばされた。自宅は爆心地から4キロ。顔中血だらけの母が防空壕(ごう)に運び、意識を失った清水さんの背中をたたき、息を吹き返した。この話を母から何度も聞かされた。

 脱走騒ぎ後に帰郷した清水さんは両親と広島市中心部でボタン専門店を営み、土日もなく働いた。結婚して家庭を持ち、子や孫に恵まれた。母は約30年前に60歳で亡くなった。

 度々講演の依頼があったが全て断り、平和集会やデモにも参加しなかった。社会やマスコミに口を閉ざした。「9条があるのに戦場に行った私が、偉そうなことは言えない」

 ただ、ベトナムのことを忘れたことはない。被爆者として、一市民として、家族のため平和を願う思いは年々増している。8月6日は毎年黙とうを欠かさず、灯籠(とうろう)流しにも可能な限りボランティアとして参加する。

 安全保障関連法が昨秋成立し、自衛官が海外の「戦地」に近づき、武器使用できる場面も広がった。安保法を巡り、国会は学生や母親らによるデモに囲まれた。でも、8月6日に広島市内各地で行われる平和デモやパレードの参加者は年々減っていると清水さんは言う。平和への思いが社会の隅々まで高まっている実感はない。

 昨年暮れ、清水さんは取材に応じ、脱走騒ぎ後で初めてマスコミに詳細を語った。今も鮮烈な記憶として残る戦地のこと、脱走騒ぎ時の胸のうち。話した理由を「今、憲法を考えることが必要と思った」と説明した。

 9条があるから脱走し、それ故に批判された。でも自分を救ってくれたのは9条を巡るさまざまな世論の盛り上がりだったと思う。「9条はただ、あるだけではだめなんです」=つづく

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 人が人として生きる権利を保障する憲法。その理念は今、どう生かされているだろうか。1946年11月の公布から70年を迎える年のはじめに、憲法のある風景を見つめたい。【憲法70年取材班】

変遷する自衛権の解釈

 9条で戦争放棄と戦力不保持、交戦権否認をうたう日本国憲法の制定当初、「自衛権の発動としての戦争・交戦権」も否定する見解が強かった。しかし、朝鮮戦争が始まった1950年に警察予備隊が発足し、保安隊を経て54年に自衛隊に衣替えする。冷戦構造の中で、米国の意向を受けた動きだった。

 9条と自衛権自衛隊の整合性については、時代情勢とともに解釈が変遷してきた。59年の「砂川事件最高裁判決は「固有の自衛権は何ら否定されたものではない」と判断している。

 政府は72年、国会に提出した政府資料で集団的自衛権憲法上許されないとの判断を示し、81年に政府答弁書閣議決定した。その後、歴代の自民党政権は、自衛隊の活動範囲を少しずつ広げた。92年に国連平和維持活動(PKO)参加を認めるPKO協力法を成立させ、海外派遣への道を開いた。

 2014年7月、安倍政権は従来の憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。昨年9月には安全保障関連法が成立し、自衛隊の活動は今後、新たな局面に入ることになる。

9条

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
    −−「憲法のある風景:公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた」、『毎日新聞』2016年01月01日(金)付。

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