覚え書:「今こそキルケゴール:苦悩しつつ格闘、真摯な姿」、『朝日新聞』2016年02月22日(月)付。

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今こそキルケゴール:苦悩しつつ格闘、真摯な姿
2016年2月22日


キルケゴール
 絶望や不安の中で主体性の真理を唱え、思想に生命を賭した。

 「自分の思想に命を懸けている。間違えたら死んでもいいという覚悟すら感じる」

 福岡市の人文系出版社「創言(そうげん)社」の村上一朗社長(78)はキルケゴールの魅力をそう語る。デンマーク語の原本からの直訳による『キェルケゴール著作全集』刊行を1988年から始めた。2011年8月、全15巻が完結。23年がかりの労作となった。

 きっかけは、キルケゴール研究の権威で大阪外大(現大阪大)名誉教授の大谷長(まさる)(故人)からの依頼だ。キルケゴールの著作は戦後の実存主義ブームや学生運動のさなか、さまざまに出版されたが、独語や英語からの重訳ばかりだった。「キルケゴールの生気ある吐露からほど遠く、誤訳や誤読も目立つ。デンマーク語の柔軟さも損なっている」と大谷名誉教授は痛感していたという。社員数人の小さな出版社ながら、地道に重厚な哲学書を出してきた創言社に、翻訳出版の白羽の矢を立てたのである。

 たとえば「自分が自分をさばけ」の意味と解され、「自らをさばけ」と訳されてきた語句は「汝(なんじ)ら自らさばけ」に。「重訳では勇敢なデンマーク精神は伝わりにくい。意味を求め、苦悩しつつも主体的に生きようとしたキルケゴールの姿を今こそ読み取ってほしい」と村上社長は話す。

 それにしてもキルケゴールの著作が扱うテーマの多くは暗い。絶望、不安、憂愁、恐れ……。これが「難解で重たい哲学者」という印象を与えたことはまちがいない。彼を生んだ母と父との関係、28歳のときの突然の婚約破棄。さまざまな仮名を使っての執筆など42年の短い生涯は謎めいた面も多い。理解するのは一筋縄ではいかない。

 だが、それらを差し引いても魅力的なのは、生き方ではないか。究極の真理とは、客観的に外から冷ややかに傍観しているだけでは到達できない。主体の全情熱を注ぐとき獲得できる、とする考えである。おびただしいほどの著作や日記からは、不安や絶望を克服するため血まみれになって戦うキルケゴールの真摯(しんし)な姿を読み取ることができる。

 欲望のままに生きる「美的実存」、社会的に意義のあることをする「倫理的実存」、キリスト教を信仰して生きる「宗教的実存A」、おそれおののきながら神の前にひとり(単独者)で立つ「宗教的実存B」。キルケゴールは人間を段階ごとに分けた。絶望が深まれば深まるほど救済のチャンスは多くなると考えた。

 とはいえ、人間は真に主体的(主観的)になれるのか。『キルケゴール——美と倫理のはざまに立つ哲学』(岩波書店)の著書がある藤野寛・一橋大大学院教授は「無意味に思える人生でも、主観的にはあくまで真剣に取り組み、右往左往し、一喜一憂するしかないと思う。そのような滑稽なあり方を、彼は『不条理』と診断した」と語る。その上で「キルケゴールは自己の根底に神があると考えた」としている。

 現代はデジタルネットワーク社会。「私」という存在が本人の意思とはまったく関係なくネット上に存在してしまう。実際には誰も見ていないのに、誰かが見ているかもしれないという意識も働く。ポスト構造主義の仏思想家で哲学者ミシェル・フーコーの著書『監獄の誕生』が赤裸々に論じていた。他者の視線が自分の中に内面化するという構造で、私たちは「いい人」になっていくというのである。

 人間疎外に抗し、主体の真理を唱えたキルケゴール。デジタル社会での主体のあり方を考える上でも学ぶべきことは多い。

 (編集委員・小泉信一)

 <足あと> Sφren Aabye Kierkegaard(セーレン・オービュエ・キルケゴール) 1813年デンマークコペンハーゲン生まれ。実存哲学の祖といわれる。自己の不安や絶望を見つめつつ、神の前にひとりで立つ「単独者」の存在(神の前の実存)と罪を考察した。大衆化し、世俗化した当時のデンマーク国教会や市民社会を激しく批判。冊子「瞬間」を発行中に過労で路上に倒れ、のち病院で死去。42歳だった。

 <もっと学ぶ> 代表作『死に至る病』は、岩波文庫で読むことができる。初版は1939年。昨年5月に104刷が発行された。累計は65万部。

 <かく語りき> 「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ」(1835年、22歳のときの手記)

 ◆過去の作家や芸術家などを学び直す意味を考えます。次回は29日、作家の立原正秋の予定です。
    −−「今こそキルケゴール:苦悩しつつ格闘、真摯な姿」、『朝日新聞』2016年02月22日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12221060.html





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