覚え書:「東日本大震災5年:ふれあい、まち中華 千葉憲二さん、陳建一さん、北尾トロさん」、『朝日新聞』2016年02月23日(火)付。

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東日本大震災5年:ふれあい、まち中華 千葉憲二さん、陳建一さん、北尾トロさん
2016年2月23日

 都会で地方で被災地で。一人で家族と友達と。みんな食べてる中華食堂。ビールに餃子(ギョーザ)、レバニラ定食、ラーメンと炒飯(チャーハン)。上る湯気はふれあいの証し。町の中華屋「まち中華」を考える。

 

 ■腹と一緒に心も満たす 千葉憲二さん(「かもめ食堂」店主)

 昔、私の故郷、宮城県気仙沼に「かもめ食堂」っていう店があってね。4歳のとき、父に連れられて初めて外食でラーメンを食べたのが、この店だった。おばちゃんの姉妹2人でやってる7、8席の小さな店でさ。中華だけでなく、カレーライスとか親子丼とか、なんでもある。それから3年後に父は他界したから、ふたりで並んで食べた記憶が忘れられないんだね。

 でも2006年に閉店しちゃった。思い返せば、最後に行ったのは、もう十数年前になるかな。有名なラーメン店「一風堂」の社長を連れて行って、ここが僕の原点なんだと口にしたら「千葉ちゃん、この店継げよ」って言われちゃってさ。

 その時は、冗談言うなよって受け流したんだけど、5年前の東日本大震災で気持ちが動いた。何度か炊き出しに行って、その店も何もかも流された気仙沼の町を見たら、なんとしても再開させたいと思うようになってね。客も働き手もいねぇからやめた方がいい、と何人もから言われたけど、去年の11月になんとか再開したんだ。ソロバンはじいたら合わないのはわかってるけど、もう、商売とかじゃないよ。

 どうして?って、気仙沼は港町だから、港に活気が戻らなきゃ、町はよみがえらない。巨費を投じて防潮堤ができたり、かさ上げ工事が進んだりしても、夜はまだ真っ暗でしょう。人通りもない。せめて一つでも港に明かりをと思ってね。なじみの顔と、なじみの味と会える場所があれば、つかの間でも気持ちがほぐれる。そういうのが、本当の復興って言うんじゃないかな。

 新生「かもめ食堂」のイチオシはラーメン。味はしょうゆか、塩。鳥ガラのほか、かつおと昆布と煮干しで取ったスープにちぢれ麺。気仙沼らしさを出すために、最後にサンマ油を回しかける。銀座にある和食店総料理長からラーメン屋に転じて24年。ありったけの「技」をつぎ込みましたよ。

 「かもめ食堂」だけじゃなくて、中華からカツ丼、カレーライスまで出してる町の食堂って、いつもそこにあることに意味があるんだよ。店主の顔が丼に映り、腹と一緒に心も満たす。それと、時間だな。子どもの頃に家族と一緒にとか、貧乏な学生時代に通い詰めたとか、人生の記憶と結びついている。もちろん、うちのラーメンの味には自信があるけど、店の価値って、別にうまいとか、まずいとかじゃないんだよ。鳥ガラより人柄ですよ。

 この町を離れても、若い人たちがいつか「俺のラーメンは気仙沼だよ」って言ってほしい。サンマの香りとともに、ふるさとを思い出してもらえれば最高だね。(聞き手・諸永裕司)

     *

 ちばけんじ 51年生まれ。和食料理店を経て、92年、ラーメン店「ちばき屋」を開く。元日本ラーメン協会理事長。

 

 ■肩ひじ張らぬ憩いの場 陳建一さん(中華料理人)

 町の中華屋、僕も自分ちの近くに行きつけの店、持ってるよ。「ちわーっ」「らっしゃい」って、特別に愛想がいいわけじゃない。僕のこと知ってたって、「陳建一だ」なんて一回も言われたこともない。でもそれが居心地いいんだ。安くてうまくて何かが通じる。近所の人たちのたまり場、コミュニティー。言わば外国の料理でありながら地域に根ざした店が全国津々浦々で営まれているのは、そういう理由だと思うよ。

 日本で中華料理が普及したのは、歴史的な要因もある。戦後、中国大陸からの引き揚げ者が、中国で食べたおいしい料理を見よう見まねで作って商売にした。焼き餃子や八宝菜とか。肉野菜炒めに近いチャプスイっていう料理も闇市で随分人気だったみたいだね。率直に言うけど、包丁、まな板とコンロに中華鍋があればある程度の料理はできる。あくまで「ある程度の」だけど。貧しい戦後の復興期に多くの中華料理店が生まれた背景に、そんな側面があったことは間違いないですね。

 昭和27(1952)年に来日した僕の父親が、日本で広めた四川料理の麻婆豆腐や日本生まれのエビチリ。いずれも白いご飯によく合う。回鍋肉(ホイコーロー)もそうです。餃子ライスなんて、中国人からすれば考えられない組み合わせだもん。そんな高カロリーの料理で、戦後の日本の働く人たちの胃袋を満たしてきたのが中華料理だった。

 高度成長期には、全国にできたホテルの売り物が広東料理店。香港から招いたシェフが弟子を育て、弟子たちがさらに店を出した。ここ20年余りは出稼ぎの中国人が「本場の庶民の味」を手頃な値段で提供する店も増えたね。戦後70年、全国各地で、日本の復興や成長を陰で支えたと言ってもいいんじゃないかな。

 3・11の5カ月後、全国の中華料理店でつくる「日本中国料理協会」のメンバーと一緒に宮城の気仙沼へ、炊き出しに行きました。五目かけご飯、麻婆豆腐とフカヒレスープ。気仙沼と言えば高級中華の食材、フカヒレの産地。質のよさで有名で、香港や台湾にも輸出してきた。中華料理に携わる者として恩返しも込めた訪問だったけど、料理人の原点を再確認しました。

 やっぱり料理の楽しさって「おいしい!」って言われた瞬間なんだと改めて感じたね。震災復興のために、何かやろうとしている人たちに少しでも元気が出る料理をふるまうのは、料理人の力になるということも。

 そんな料理作りの醍醐味(だいごみ)と楽しさを少しでも伝えたい。高級な店でなくていい。小さな町でも心がこもった料理と憩える場所を肩ひじ張ることなくお客さんに提供するっていい仕事だと思わないか。若い人には、そんな話をしているよ。(聞き手・永持裕紀)

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 ちんけんいち 56年生まれ。父・建民氏が興した赤坂四川飯店会長。11年から「日本中国料理協会」会長を務める。

 

 ■「おいしすぎない」食遺産 北尾トロさん(ライター)

 学生時代によく通ったJR高円寺駅前の中華の店に、久しぶりに行ってみたら、なくなっていたんですね。行くといつもカツ丼を食べていました。安くて量も食べきれないほど多くて。社会に出てからもたまに食べにいって、ずっとあると思っていたので、「なくなるんだ」とショックを受けました。「気づかないうちにどんどんなくなっている。これは大変なことになるぞ」と危機感を覚えて、それ以来、友人でライターの下関マグロと一緒に、町の中華屋の食べ歩きを始めました。

 昨年から30代の女性のライターが加わって、「町の中華屋」を記録して残す活動をする「町中華(まちちゅうか)探検隊」を始めました。訪れた店のリポートを書き始めたところ、メンバーがどんどん増えて今では30代から50代までのフリーのライター、カメラマン、イラストレーター、編集者を中心に20人に膨らんだ。これまで都内を中心に250軒紹介しました。30代の人にとっては、町中華は全くの未知の世界でテーマパークのように見えるようです。

 私の町中華の定義は「昭和以前に開業し、千円以内で満腹になれる庶民的な中華店。ラーメンに特化した専門店と異なり、麺類、飯類、定食など多彩なメニューを提供している」といったところです。個人的には中華屋なのにカツ丼を出しているというところにこだわりたい。最初はラーメンだけだったのが、客の要望に応えてメニューが増えてしまったんでしょうね。油を使う料理が多いため、床が少しぬるっとしている感じも大切にしたい点です。

 町中華の魅力は、おいしすぎないところだと思います。店を出た瞬間に何を食べたかさえ忘れるくらいの味ですが、しばらくするとまた足を運んでしまう習慣性があります。かつては、とんでもなくまずい町中華もありましたが、そんな店は淘汰(とうた)された。今残っているのはそこそこ、味か立地がいい店ですね。店主の人柄や空間としての居心地のよさにひかれ、夜は常連客が集まる居酒屋のようになっている店も多いです。

 食べ歩いてみてわかったのですが、店主のおやじは60〜70代がほとんどで、80代という人さえいました。多くは店を継ぐ者はなく「自分の代で終わり」と言っていて、自分が中華鍋を振れなくなったら店はおしまいと思っています。「2020年の東京五輪まではなんとかがんばりたい」と言う店主が結構多いですね。今後数年で町中華は一気に消えてしまいそうな予感がします。

 ひっそりと消えていこうとしている町中華ですが、昭和の食文化の遺産であるとともに、地元の人々の交流の場でもある。失われてしまうのは非常に残念ですね。(聞き手・山口栄二)

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 きたおトロ 58年生まれ。猟師としても活動。著書に「山の近くで愉快にくらす」「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」。
    −−「東日本大震災5年:ふれあい、まち中華 千葉憲二さん、陳建一さん、北尾トロさん」、『朝日新聞』2016年02月23日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12222227.html





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