覚え書:「東日本大震災5年:ネットの力 寺島英弥さん、長谷川琢也さん、渡邉英徳さん」、『朝日新聞』2016年03月17日(木)付。

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東日本大震災5年:ネットの力 寺島英弥さん、長谷川琢也さん、渡邉英徳さん
2016年3月17日


コラージュ・甲斐規裕

 被災地の情報発信や復興支援、そして記憶の共有——。東日本大震災から5年、ネットを使うことで、どんなことができたのか。そして、これから何ができるのか。

 ■風評・風化、ブログで崩す 寺島英弥さん(河北新報社編集委員

 震災を機に、私にとってブログは、被災地の情報発信に不可欠な手段になりました。

 地震が起きたのは、仙台の職場に取材から戻り、机でパソコンを開いた時でした。

 紙面制作機材は横転。号外と8ページの朝刊は何とか被災地に届きましたが、紙だけの情報発信の限界も感じました。

 ならば、2年前に自社SNSで始めた私のブログ「Cafe Vita」に記録しておこうと思ったんです。

 最初の投稿は震災4日目。「余震の中で新聞を作る」と題して、新聞社が経験した震災の状況を発信しました。すると励ましの声など、1時間ほどでたちまち5件の反響が寄せられていた。ネットで外とつながれる、と思いました。

 震災6日目から石巻、大船渡、陸前高田を回り、紙面で「ふんばる」という連載を始めました。ただ、新聞記事の限度は千数百字。被災地の現実の大きさを、現場で見たまま、聞いたまま発信したかった。

 ブログなら出来る。取材と執筆の合間を使って、記事の「詳報」としてブログを書き続けるようになりました。

 投稿数は5年で136回。

 被災した陸前高田のジャズ喫茶を紙面とブログで紹介したら、高知から段ボールでレコードが届いたこともある。

 被災地の人たち自身も、ネットで声を上げています。このジャズ喫茶のマスターも、被災から店の再建の経緯を、ブログなどで発信している。

 福島県新地町のリンゴ農家やいわき市四倉町鮮魚店は、ホームページなどで放射能検査の結果も公表し、販路回復に取り組んでいます。

 被災地は常に変化していて、訪れるごとに伝えるべき続報がある。ブログなら、その変化の積み重ねを過去の投稿へのリンクで紹介できます。

 取材ノートは数十冊になりますが、発信しなければ、自分が目にした現実がなかったことになってしまう。

 ブログは最初、2千字程度だったのが、今では8千字前後。現場のメモを1行たりとも削らず、被災地の外の人たちに追体験してもらいたい。

 震災3年目ぐらいから「風評と風化の壁」がはっきりしてきました。被災地産品への風評被害はやまず、被災地への関心は薄れる一方です。

 東北の地方紙である河北新報の読者は、震災の当事者です。ただ、「風評と風化の壁」を崩すには、その外側への正確な情報発信が必要です。「壁」の外の人たちをつなぎ、一緒に解決策を見つける。ネットも活用した、そんな地方紙の役割の再定義が迫られていると思います。

 私のブログは講談社のサイト「現代ビジネス」に転載されたり、4冊の本になったりした。「壁」の内と外をつなぐ多メディア展開が必要です。

 被災地の人々の苦闘が終わらない以上、私のブログもやめられないでしょう。

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 てらしまひでや 57年生まれ。著書に「悲から生をつむぐ 『河北新報編集委員の震災記録300日」など。

 

 ■次世代の水産業、先行例に 長谷川琢也さん(ヤフー復興支援室長)

 震災2年目の2012年7月に宮城県石巻市に現地事務所「ヤフー石巻復興ベース」を開設し、復興支援事業に取り組んで4年目になります。

 それまではヤフー・ショッピングやヤフー・オークション(現ヤフオク!)の販売促進の責任者をしていました。

 震災直後からそれらのサービスを使い、著名人らの出品による「チャリティーオークション」や、支援物資を被災地に届ける「支援ギフト便」などを始めました。

 個人的にも被災地に通い、泥かきのボランティアをするうち、ネット企業としてもっとできることがあるんじゃないか、と考えたんです。

 被災地には、津波に流されなかった水産加工品など、売れる商品はありました。ただ、震災で販路が断たれてしまった。ネットならその商品をPRし、再び販路をつなぐことができるかもしれない。

 石巻南相馬などを回り、11年12月、三十数品目でネット百貨店「復興デパートメント」をオープンしました。

 翌年4月、新設された復興支援室に配属されました。生活が再開し始めた震災2年目の東北で、これから必要なことは何か。ビジネスとして持続可能な復興支援です。

 被災地とそれ以外の地域、ネットの世界と被災地のリアルの世界にはギャップがあります。それをつなぐ役回りの人間が、現地にいた方がいい。そこで石巻に現地拠点である「復興ベース」を構えました。

 当初は戸惑いもありました。ヤフーでは、連絡はほぼメールかチャット。ところが水産業の人たちには、そんなもの通用しません。電話かファクス。しかも、東京から来たよくわからないネット企業です。パソコンは捨て、足を使った人のネットワークづくりをするようになりました。

 生産者の方にネット販売のノウハウを伝えたり、地元産品の商品開発、若い世代の人材育成に関わったりするつながりが徐々に広がりました。

 特にこの地域は漁業です。

 14年5月に、漁師や水産加工の若手と「フィッシャーマンジャパン」という団体を立ち上げました。

 ネットの情報発信力を生かしながら、生産、加工、流通を総合的に扱う「6次産業化」を目指し、水産業に特化した求人サイトも運営しています。

 北海道や九州などから視察が相次ぎ、もう復興ではなく、全国に先がけたモデルケースです。こんな事例を、さらに広げたい。

 「復興ベース」の開設当初、社長から「黒字化するまで帰ってくるな」と言われて赴任しました。「復興デパートメント」の取扱高は、今年の3月11日だけで2560万円。順調に伸びてますが、黒字化はまだ先です。私の誕生日も3月11日。何かのめぐり合わせかもしれません。当面はここで頑張ります。

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 はせがわたくや 77年生まれ。著書に「10倍挑戦、5倍失敗、2倍成功!? ちょっとはみだし もっとつながる 爆速ヤフーの働き方」。

 

 ■仮想マップ、被災を追体験 渡邉英徳さん(首都大学東京准教授)

 震災関連情報をグーグルの3Dマップ、グーグルアース上に重ねて表示する「東日本大震災アーカイブ」に、発生直後から取り組んできました。

 地震が起きた時は新宿に向かう電車の中。八王子で原爆被爆者の会の方々との打ち合わせを終えたところでした。

 その前年の7月、長崎の原爆被爆者の証言や記録写真をグーグルアースの上に重ねて表示する、「ナガサキアーカイブ」を公開しました。

 「アーカイブ」とは記録の保管所。マップ上の顔写真をクリックすると、被爆証言が表示される仕組みです。

 被爆者の会などの協力を得て、次の「ヒロシマアーカイブ」の準備を進めている最中に、震災が起きました。

 自分に何ができるか。思いついたのは、原発事故関連のネット情報マップです。

 福島原発からの距離を同心円で示すマップが作れないか。ツイッターでの協力呼びかけに数人から反応があり、数時間で公開できました。

 ホンダが被災地の通行実績データを公開したので、それをグーグルアース上に表示したりもしました。

 一方で、海外の報道写真に違和感を覚えました。悲惨さだけを切り取って、あまりに一面的だな、と。

 そこで、それらの報道写真を震災前の風景が写るグーグルアースに重ねてみました。元々そこにあった人々の暮らしと対比することができた。

 「ナガサキ」「ヒロシマ」のアーカイブは過去を現在に再現する取り組みです。今回は、自分の同時代に起きた災害を、現在から未来へ残す必要がある。そう思いました。

 外部からも情報提供がありました。宮城大学からは南三陸での被災者の方々の体験談の録音。朝日新聞の企画「いま伝えたい千人の声」の証言。地震発生時のツイッターの投稿。それらを全て重ね合わせていって、震災1年後には、「東日本大震災アーカイブ」として公開されました。

 ネット上の仮想的なマップで見ると、災害の規模の大きさ、そして被災地は自分たちとそう離れていない場所にあることが一目でわかる。

 さらに証言をクリックしていくと、同じ地域であっても受け止め方は一様ではない、ということも見えてきます。

 そんな立体的な文脈の中で、たとえ言葉はわからなくても、世界中から震災を追体験することができる。

 今月9日、岩手日報と共同制作したデジタルアーカイブ「忘れない〜震災犠牲者の行動記録」が公開されました。津波の犠牲者が、どこにいて、どう避難したのか、マップ上の動画にまとめたものです。

 震災から5年という時間をかけ、遺族から取材した貴重な証言のアーカイブです。

 防災・減災の議論のきっかけになれば、と思っています。

 (聞き手はいずれも平和博)

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 わたなべひでのり 74年生まれ。著書に「データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方」など。
    ーー「東日本大震災5年:ネットの力 寺島英弥さん、長谷川琢也さん、渡邉英徳さん」、『朝日新聞』2016年03月17日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12261429.html


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