覚え書:「今週の本棚・中村桂子・評 『手話を生きる−少数言語が多数派日本語と出会うところで』=斉藤道雄・著」、『毎日新聞』2016年03月20日(日)付。

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今週の本棚
中村桂子・評 『手話を生きる−少数言語が多数派日本語と出会うところで』=斉藤道雄・著

毎日新聞2016年3月20日 東京朝刊

 (みすず書房・2808円)

言語、人間とは何かを考えさせる

 三月三日、手話を日本語と同等の独自の言葉と認める「手話言語法」の制定を求める意見書が、国内一七四一の地方議会のすべてで採択されたと報道された。誰もが暮らしやすい社会づくりへの一歩前進である。そんな時たまたま本書を読み、手話には、言語や障害という人間を知るうえで重要な課題を具体的に考えるテーマが含まれていることを知った。

 私たちは、耳が聞こえず「日本語」を音として理解できない人に、手などの動作を通して伝える手段を手話だと思っている。確かにそのような「日本語対応手話」はある。しかし著者は、手話という自然言語の存在を教えてくれる。「ろう」と「聴」という二つの世界、それぞれに自然言語があり、「ろう」の世界では手話ですべてを完璧に表現できるというのだ。地域によって、そこで生まれる手話は異なる。独自の自然言語であるのに、日本には日本手話、アメリカにはアメリカ手話が生まれるのはなぜか。言語誕生の鍵が隠れていそうな気もする。

 ろう児の教育には、自然言語である日本手話を教えれば、充分な言語世界ができる。そして、聴者とのコミュニケーションのために、ろう者が日本語の読み書きを獲得し、バイリンガルになればよいというわけである。

 手話を自然言語であると最初に言ったのはアメリカの言語学者W・ストーキーで、一九六〇年のことだった。以来半世紀、アメリカでは、バイリンガル教育への道づくりが進められてきたという。一九九一年、日本にも日本手話という自然言語があることが見出(みいだ)された。対応手話は単語が独立しているが、日本手話には文法があり、ろう者にすんなり理解されるとのことである。

 手話が自然言語であると気づく前は、どの国でも読唇術を学び、無理をしてでも音声で伝える努力をし、その国の言語を学ぶことがろう児の教育であった。人工内耳を用いてなんとか音を拾えるようにしたり、対応手話を用いたりしてきた。しかし、それで獲得できる能力は不十分であり、深く考えたり、細かな感情の表現をしたりすることは難しい。そこで「ろう」は大きな障害になり、ろう者は障害者となる。自然言語としての手話を身につければ、それを用いて思考を深められ、ろうは障害でなくなるのにである。

 著者は対応手話を否定してはいない。それを学ぶ人がふえ、聴者とのコミュニケーションができれば、ろう者の世界は広がり、暮らしやすくなることは事実だからだ。しかし、自然言語としての手話によって、聞こえないことが障害でなくなることに眼(め)を向けてほしいと望んでいるのだ。ろう者がバイリンガルになることで、自分たちの豊かな言語世界をもちながら聴者と共に日常生活を送れるからである。

 著者は、テレビ局でのドキュメンタリー制作の中でこの課題に出会い、日本手話に始まるバイリンガル教育の重要性に気づき、同じ考えのろう者と明晴学園という小さな学校の創設に関わった。この活動は、日本のろう社会の中での主流ではないのだろう。しかしこれは、手話に止(とど)まらず、言語とは何か更には人間とは何かを考えさせる問題提起である。著者は、リービ英雄の言葉を引用する。「よそ者は、日本社会の多くの場で門前払いという苦い経験を味わうのだが、もしその人に少しでもコトバに対する感受性と冒険心があれば、日本語だけは門前払いを食わせない(、、、、、、、、、、、、、、、、)」。このように言葉は開かれているという考えから日本手話を大切にしたいという著者の思いに共感する。
    −−「今週の本棚・中村桂子・評 『手話を生きる−少数言語が多数派日本語と出会うところで』=斉藤道雄・著」、『毎日新聞』2016年03月20日(日)付。

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