覚え書:「売れてる本 怒り(上・下) [著]吉田修一 [文]阿部嘉昭(評論家・北海道大学准教授)」、『朝日新聞』2016年10月02日(日)付。

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売れてる本
怒り(上・下) [著]吉田修一
[文]阿部嘉昭(評論家・北海道大学准教授)  [掲載]2016年10月02日
 
■3色の糸で織られた苦い布

 吉田修一『怒り』は、3色の糸で織られた苦い布だ。世田谷、外房、沖縄の糸。冒頭、夫婦惨殺事件の描写があり、それぞれの地には犯人と特徴の合う身元不詳者がいる。読者は主人公たちの視点を共有、3人のうちの誰かが犯人なのだというミステリーに巻き込まれる。
 バラバラといっていい構成だが、そう感じさせない。主要人物全員に「本心を言わない」規律が配されているのだ。世田谷の主人公・優馬は一緒に暮らす正体不明の直人が事件の犯人ではないかと疑ったとき、警察から直人を知らないかと電話がかかる。知らないと白を切って、重なるのが聖書の「聖ペテロの否認」。沖縄では主人公少女のレイプ事件が起こる。その悲劇を共有した少年は「言わないで」という少女に殉じ、崇高な自己犠牲を引き受ける。決定的な瞬間、「何も変えられない」と呟(つぶや)く少年に、再公開も予定されている台湾の歴史的傑作映画「クー嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」、その主人公の面影が漂う。
 謎解きが主眼ではない。ミステリーとしては定石外しだが、泣ける名場面が連打される。同時に物語のいわば「模様」を変えようとする野心も迫ってくる。代表作『悪人』と同様だ。
 別件逮捕者の顔の描写にかこつけて吉田が自分の小説作法を語ったようなこんなくだり。「罪を繰り返す者の顔には、諦念(ていねん)や貪欲(どんよく)さや幼稚さの糸のようなものが、それぞれの針で縫いつけられており、その引き攣(つ)れがある。この縫い目にハサミを入れて、一本一本の糸を抜いてやれば(…)別の醜悪さを見せるのかもしれない」。いくつかの可能性から一つが選ばれている、こんな奥行きの予感が吉田小説の魅力だ。
 バルザックの小説世界全体を1冊に集約したような吉田小説は、人物も物語も多元的で、映画化するとダイジェストになる。それでも小説の魅惑的な人物は、顔の具体的な像を求める。映画と原作、双方の体験者が多いのもそのためだろう。
    ◇
 中公文庫・各648円=上・3刷48万部、下・同46万部
 文庫版は16年1月刊行。映画も公開中。担当編集者は「加害者でも被害者でもない人物に、読者は自分を重ねるのでは」。
    −−「売れてる本 怒り(上・下) [著]吉田修一 [文]阿部嘉昭(評論家・北海道大学准教授)」、『朝日新聞』2016年10月02日(日)付。

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